『大日本史料』 12編 54 元和八年雑載 p.317

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夜中潛に洛陽大徳寺に趣かせ給ふ、元秀御供して、, 合有へしと馳せ登らせ給ふ、斯る處に、關か原の戰ひ事終て上方の軍勢まけ軍すと道に, 殿内之御氣色宣しからす、御對面の事も候はす、, て聞し召、急き給ひしかと、近江の國大津の宿にて徳川殿に追付給ひける、然るに徳川, を參らせたり、斯て傑俊公、利長朝臣と打連給ひ、關白の御味方として關か原の戰に手, 同十五年、筑紫の御陣に御供し、七月、松任に移らせ給ふに從奉る、同十八年、小田原, 同九月、利長朝臣と, 直りし給ひしに、御舍弟長紹朝臣を, 御中, 人質に參らせられし時、元秀二男庄左衞門直信, 道すから警三, の御陣に從ひ、文祿元年、朝鮮の事起て肥前の國名古屋の御陣に御供し、同五年八月、, 淺井畷の戰には、一方の大將賜て高名す、, 兩人をは、元秀己か家に招き申けれは、さりし頃ゟつく〳〵御家の有樣を見るに、歴〻の衆關白殿内〻招き給ふ由風聞, す、斯ては我等三人をも御招き可有か、さらんに取ては誰か若君の御力ともなり、御先途を見屆參らすへき、我等三人は, 思慮し給ひ、斯は計りしや、終に若狹の國一つを與へ、後又若狹をも奪ひ、松任のみを與られき、御家人中にも大谷は, 忠義を存せし人にてけれは關白殿の仰に從はさりしと見へて、關白殿も強て招きもし給はす、されは此時も江口・坂井, に歴登りけれは、始終其進退に從ひ給ふまし、増してや智勇の大將にまし増さは、御幼稚の程に兵馬の權を奪ふへし, 招き取り給ふ、是宗徳公の御嫡なれは織田殿の御時よりの大名にて、己か上に立給ふへき御事なるに、己か關白正二位, 此戰委敷事は、江口, か傳と合せ見るへし、, 御暇賜りしと見へし、慶長五年九月二十二日ノ條二, 此時御家人等は、皆○家康、長重ノ封ヲ褫フコト、, 從ひまいらす非軍不少といへと, も、大臣には此元秀壹人也、, 納言, 前田中, なり, と、元秀か子孫は連綿として數家に分れ、今に至る迄御家の長臣として家繁昌にて候へける、是元秀か餘慶にあらすや, の心金石に均しかりし事、後世には難有忠心と云つへし、されはにや、此時關白家へ參りし人には、多くは家を忘れぬ, 左近殿, も義をも存せしもの少なかりき、然るに元秀、己か身を忘れ、免にも角にも君の御榮裏に隨へ、始終志を變せす、忠義, 如何に申給ふとも仰にはよも從ましとて、堅く誓しとなり、此頃は亂世の最中なれは、人の心利欲にのみ引かれ、忠を, 思慮し給ひ、斯は計りしや、終に若狹の國一つを與へ、後又若狹をも奪ひ、松任のみを與られき、御家人中にも大谷は, す、斯ては我等三人をも御招き可有か、さらんに取ては誰か若君の御力ともなり、御先途を見屆參らすへき、我等三人は, 忠義を存せし人にてけれは關白殿の仰に從はさりしと見へて、關白殿も強て招きもし給はす、されは此時も江口・坂井, 兩人をは、元秀己か家に招き申けれは、さりし頃ゟつく〳〵御家の有樣を見るに、歴〻の衆關白殿内〻招き給ふ由風聞, に歴登りけれは、始終其進退に從ひ給ふまし、増してや智勇の大將にまし増さは、御幼稚の程に兵馬の權を奪ふへし, 見, 招き取り給ふ、是宗徳公の御嫡なれは織田殿の御時よりの大名にて、己か上に立給ふへき御事なるに、己か關白正二位, (加賀能美郡), ユ見, ラズシテ戰, 高名ス, 長重家康ノ, 〓止ム, 元秀長重ノ, ン關ケ原二, 長重二供奉, 向へドモ到, 勘氣ヲ蒙ル, 筑紫陣小田, 原陣夕名護屋, 陣二従軍ス, 京都大徳〓, 淺井畷戰, 二潛逃スル, 二隨從ス, 元和八年雜載疾病・死歿, 三一七

割注

  • 此戰委敷事は、江口
  • か傳と合せ見るへし、
  • 御暇賜りしと見へし、慶長五年九月二十二日ノ條二
  • 此時御家人等は、皆○家康、長重ノ封ヲ褫フコト、
  • 從ひまいらす非軍不少といへと
  • も、大臣には此元秀壹人也、
  • 納言
  • 前田中
  • なり
  • と、元秀か子孫は連綿として數家に分れ、今に至る迄御家の長臣として家繁昌にて候へける、是元秀か餘慶にあらすや
  • の心金石に均しかりし事、後世には難有忠心と云つへし、されはにや、此時關白家へ參りし人には、多くは家を忘れぬ
  • 左近殿
  • も義をも存せしもの少なかりき、然るに元秀、己か身を忘れ、免にも角にも君の御榮裏に隨へ、始終志を變せす、忠義
  • 如何に申給ふとも仰にはよも從ましとて、堅く誓しとなり、此頃は亂世の最中なれは、人の心利欲にのみ引かれ、忠を
  • 思慮し給ひ、斯は計りしや、終に若狹の國一つを與へ、後又若狹をも奪ひ、松任のみを與られき、御家人中にも大谷は
  • す、斯ては我等三人をも御招き可有か、さらんに取ては誰か若君の御力ともなり、御先途を見屆參らすへき、我等三人は
  • 忠義を存せし人にてけれは關白殿の仰に從はさりしと見へて、關白殿も強て招きもし給はす、されは此時も江口・坂井
  • 兩人をは、元秀己か家に招き申けれは、さりし頃ゟつく〳〵御家の有樣を見るに、歴〻の衆關白殿内〻招き給ふ由風聞
  • に歴登りけれは、始終其進退に從ひ給ふまし、増してや智勇の大將にまし増さは、御幼稚の程に兵馬の權を奪ふへし
  • 招き取り給ふ、是宗徳公の御嫡なれは織田殿の御時よりの大名にて、己か上に立給ふへき御事なるに、己か關白正二位
  • (加賀能美郡)
  • ユ見

頭注

  • ラズシテ戰
  • 高名ス
  • 長重家康ノ
  • 〓止ム
  • 元秀長重ノ
  • ン關ケ原二
  • 長重二供奉
  • 向へドモ到
  • 勘氣ヲ蒙ル
  • 筑紫陣小田
  • 原陣夕名護屋
  • 陣二従軍ス
  • 京都大徳〓
  • 淺井畷戰
  • 二潛逃スル
  • 二隨從ス

  • 元和八年雜載疾病・死歿

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  • 三一七

注記 (60)

  • 290,748,59,1298夜中潛に洛陽大徳寺に趣かせ給ふ、元秀御供して、
  • 662,655,60,2275合有へしと馳せ登らせ給ふ、斯る處に、關か原の戰ひ事終て上方の軍勢まけ軍すと道に
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  • 538,659,60,2275て聞し召、急き給ひしかと、近江の國大津の宿にて徳川殿に追付給ひける、然るに徳川
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  • 1280,655,60,2279同十五年、筑紫の御陣に御供し、七月、松任に移らせ給ふに從奉る、同十八年、小田原
  • 1038,2174,53,511同九月、利長朝臣と
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  • 1032,654,57,1060淺井畷の戰には、一方の大將賜て高名す、
  • 1683,649,45,2284兩人をは、元秀己か家に招き申けれは、さりし頃ゟつく〳〵御家の有樣を見るに、歴〻の衆關白殿内〻招き給ふ由風聞
  • 1639,649,46,2275す、斯ては我等三人をも御招き可有か、さらんに取ては誰か若君の御力ともなり、御先途を見屆參らすへき、我等三人は
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  • 447,1914,44,1014此時御家人等は、皆○家康、長重ノ封ヲ褫フコト、
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  • 1559,652,44,2284如何に申給ふとも仰にはよも從ましとて、堅く誓しとなり、此頃は亂世の最中なれは、人の心利欲にのみ引かれ、忠を
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  • 1638,649,45,2276す、斯ては我等三人をも御招き可有か、さらんに取ては誰か若君の御力ともなり、御先途を見屆參らすへき、我等三人は
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  • 1930,643,48,2280招き取り給ふ、是宗徳公の御嫡なれは織田殿の御時よりの大名にて、己か上に立給ふへき御事なるに、己か關白正二位
  • 1089,658,36,200(加賀能美郡)
  • 279,657,81,38ユ見
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