『大日本古文書』 伊達家文書 10 伊達家文書之十 p.580

Loading…

要素

ノンブル

OCR テキスト

らきしかは、太閤より感状二通をあたへす、兩度乃功を賞し、また東照宮よりも御書を, を〓たひ、陸奥國宇多郡をもあはせ領し、田村大膳大夫清顯か領をし同國三春の城は、家, をの〓へらる、四月三日東照宮より御書をたヌはりて、在京の勞を慰せらる、五月、ふた, し、其形勢をしめさるゝによて、政宗も所存をのふ、曾て政宗底倉にありて、使〓來ふのと, におもむく、三月侍從とな〓、越前守にあらため、羽柴乃稱號をさつ〓られ、大崎葛西乃地, め、上洛すへきの旨、太閤より朱印を授なられ、十三日東照宮よりも、政宗か上洛の事を, 侍座をし和久入道宗是はもとより相しれるかゆへに、解なこ〓にあたへ、側近くすゝむ、, 羽兩國乃所務を沙汰す〓きのむ手をう〓〓ははりて、六月城地にかへり、ぬたゝひ米澤, しとしず、京師に贈る、七月二日佐沼城を拔て、二千餘人を討取、大崎葛西こと〳くく〓, き、千宗易殿下にしたかひて軍營にありと聞、願はくは渠に會し、茶道乃むねをきかんと, すゝむへきのよし、〓島万機親義を御使としず、家臣片倉景綱に御書を〓まふ、二月京師, こ乃とき政宗水引をもつて〓をずつ手、其容貌頗異風なり、太閤杖をとり、小田原城をさ, の夜、一揆等つこをれる宮崎城を攻落し、敵首八十一及ひ百三十級の耳鼻をそきてしる, 下されず、賞美せらあ、こ乃年、九戸の賊徒御追討としず、東照宮陸奧國に御發向あり, 城にうつる、七月太閤奥羽に下向あれにより、宇都宮に出てこりをむかふ、太閤旅舘の茶, 語る、太閤こせ裁つたへ聞て、渠邊鄙に住すといへとも風流の意あり、且一身の安危に乃, 村伊勢守吉清父子にあたへらるゝのところ、大崎葛西の舊臣等一揆を催し、亂にをよふ, によ〓、政宗兵を出してこ〓を撃、十九年正月、寒天のときたるの故に、一揆乃誅伐をと, 作するのところにをいず、なしめて太閣にまみゆ、太閤曲〓にかゝり、東照宮も〓のか, ゝひ大崎葛西の一揆を鎭むへきのよし、太閤の命をうきて所領にかへ〓、六月二十五日, そみて、猶かゝなことを談する事、尋常乃ものにあらすと、深く賞美せらふ、ときに政宗奥, 臣片倉小十郎景綱にたまふ、しかるに、景綱、太閤より封地をたタはりては、主政宗への忠, たはらにおはす、前田利家以下の列侯を乃〳〵祗候す、政宗〓見終りて退かむとす、とき, らる、八月大崎左衞門督義隆葛西左京大夫晴信の陸奥國の所領を沒收せられ、これを木, て太閤杖をもて政宗をさし招くにより、すゝみ出るのとき、腰刀を脱せさりしかは、傍, 義うすくれるよしを云て、辭するにより、この地をも政宗に與へらる、二十四日、陣屋を造, れ、繩張ありて、城を築つしめたまふ、これよりのち政宗其城にうつり住し、岩出山と號す, 室にをいて、みつから點茶裁〓まひ、また卯花縅の具足、熊毛乃兜に、團扇をそへての達へ, 岩手澤に御逗留乃とき、このとこ法をもつて政宗か居城となすへきのむ手お不せ下さ, 附録, 五八〇

  • 附録

ノンブル

  • 五八〇

注記 (31)

  • 338,751,46,2117らきしかは、太閤より感状二通をあたへす、兩度乃功を賞し、また東照宮よりも御書を
  • 1800,746,47,2129を〓たひ、陸奥國宇多郡をもあはせ領し、田村大膳大夫清顯か領をし同國三春の城は、家
  • 571,748,47,2121をの〓へらる、四月三日東照宮より御書をたヌはりて、在京の勞を慰せらる、五月、ふた
  • 1331,747,47,2123し、其形勢をしめさるゝによて、政宗も所存をのふ、曾て政宗底倉にありて、使〓來ふのと
  • 630,752,46,2118におもむく、三月侍從とな〓、越前守にあらため、羽柴乃稱號をさつ〓られ、大崎葛西乃地
  • 746,752,47,2117め、上洛すへきの旨、太閤より朱印を授なられ、十三日東照宮よりも、政宗か上洛の事を
  • 1447,746,47,2143侍座をし和久入道宗是はもとより相しれるかゆへに、解なこ〓にあたへ、側近くすゝむ、
  • 1098,750,47,2121羽兩國乃所務を沙汰す〓きのむ手をう〓〓ははりて、六月城地にかへり、ぬたゝひ米澤
  • 396,751,47,2121しとしず、京師に贈る、七月二日佐沼城を拔て、二千餘人を討取、大崎葛西こと〳くく〓
  • 1273,749,46,2123き、千宗易殿下にしたかひて軍營にありと聞、願はくは渠に會し、茶道乃むねをきかんと
  • 687,748,47,2122すゝむへきのよし、〓島万機親義を御使としず、家臣片倉景綱に御書を〓まふ、二月京師
  • 1388,748,48,2125こ乃とき政宗水引をもつて〓をずつ手、其容貌頗異風なり、太閤杖をとり、小田原城をさ
  • 457,748,45,2123の夜、一揆等つこをれる宮崎城を攻落し、敵首八十一及ひ百三十級の耳鼻をそきてしる
  • 265,747,47,2131下されず、賞美せらあ、こ乃年、九戸の賊徒御追討としず、東照宮陸奧國に御發向あり
  • 1040,747,46,2125城にうつる、七月太閤奥羽に下向あれにより、宇都宮に出てこりをむかふ、太閤旅舘の茶
  • 1215,748,48,2122語る、太閤こせ裁つたへ聞て、渠邊鄙に住すといへとも風流の意あり、且一身の安危に乃
  • 863,745,48,2124村伊勢守吉清父子にあたへらるゝのところ、大崎葛西の舊臣等一揆を催し、亂にをよふ
  • 806,747,45,2109によ〓、政宗兵を出してこ〓を撃、十九年正月、寒天のときたるの故に、一揆乃誅伐をと
  • 1624,745,45,2125作するのところにをいず、なしめて太閣にまみゆ、太閤曲〓にかゝり、東照宮も〓のか
  • 513,762,47,2106ゝひ大崎葛西の一揆を鎭むへきのよし、太閤の命をうきて所領にかへ〓、六月二十五日
  • 1157,750,46,2120そみて、猶かゝなことを談する事、尋常乃ものにあらすと、深く賞美せらふ、ときに政宗奥
  • 1741,747,47,2126臣片倉小十郎景綱にたまふ、しかるに、景綱、太閤より封地をたタはりては、主政宗への忠
  • 1565,751,46,2119たはらにおはす、前田利家以下の列侯を乃〳〵祗候す、政宗〓見終りて退かむとす、とき
  • 920,749,48,2121らる、八月大崎左衞門督義隆葛西左京大夫晴信の陸奥國の所領を沒收せられ、これを木
  • 1506,746,47,2129て太閤杖をもて政宗をさし招くにより、すゝみ出るのとき、腰刀を脱せさりしかは、傍
  • 1682,747,46,2126義うすくれるよしを云て、辭するにより、この地をも政宗に與へらる、二十四日、陣屋を造
  • 150,752,46,2124れ、繩張ありて、城を築つしめたまふ、これよりのち政宗其城にうつり住し、岩出山と號す
  • 981,747,47,2112室にをいて、みつから點茶裁〓まひ、また卯花縅の具足、熊毛乃兜に、團扇をそへての達へ
  • 207,746,46,2125岩手澤に御逗留乃とき、このとこ法をもつて政宗か居城となすへきのむ手お不せ下さ
  • 1904,730,42,131附録
  • 1905,2472,42,121五八〇

類似アイテム