『大日本史料』 6編 12 貞和4年10月~貞和5年10月 p.650

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せ給ふ、, も許容なく、秀山師曰、此所山水美景、願は此所に一宇を立て居せんとの, 死の節、武光公は武重公と共に御供有しか、軍敗甚危かりにる故、武光公, は御若年に付、福岡の聖福寺に忍ひ給ふ時に、大方和尚御匿し被成、ひそ, り此方に御出の時、武光公秀山師を御止め有けれとも強てひそのに歸, かに肥後に連れ返せしと也、此時大方和尚に約束の筋有て此寺御建立, と云、和漢禪刹等ニも出たりと承る、按るに秀山師大方師を訪て博多よ, 開山と成し給ふ、此故を以て此寺に兩開山有と云、兩師の繪像木像今に, り給ふを、武光公跡より馬にて追懸、金峰山の裏野出村にて追付給へと, たまふ、因て此所に寺を立寶積寺と號し秀山住し給ふ、此節秀山師を御, 留めに因て、當正觀寺の開山と成し給ひ、大方師は以前約束有しを以て, 也、開山は秀山大方兩和尚也、秀山は佛燈國師の弟子にて、秀禪師の孫弟, 子と云り、大方和尚は秀山和尚の弟子にて、其比は鎭西にて無二の名僧, 有、繪像は當山八世寰仲和尚渡唐の時、彼地にて楚石和尚に頼て贊を書, 正觀寺住持之次第開山秀山和尚貞和五年五月七日示寂、, 南朝正平四年北朝貞和五年五月七日, 實積寺二, トナル, 寺ノ開山, 肥後正觀, 住ス, 六五〇

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  • 實積寺二
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  • 六五〇

注記 (22)

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