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なり、其比山鹿關なとの城は、當國の人の籠りたると見ゆれとも、其比山鹿, にて、建武三年將軍尊氏卿の御迎として、赤間關まて參りたる安藝助太郎, ら向はせ給ひて、それより直に筑後へ打入らせ給ひて、溝口城を攻給ひし, 郡中にて、いつかたなりしやさたかならす、關城は平家物語に見えたる大, 貞元か子也、貞元其比は官途して兵庫頭と名のりし故、頼親また父か假名, 時宮上妻城を攻落し給ひて、引返さを給ひしか、瀬高に二三日も御逗留あ, をめされたるに、頼親は御催促をうけて、お之れ馳に馳付たる也、肥猪原は, を襲て助太郎と名のりしか、後には官途もまた父とおなしく兵庫頭にな, 固を勤したると見えたり、頼親は助太郎と名のりたれは、杢之助貞鑑か孫, 今の肥猪市あたりのはらなり、溝口は筑後國上妻郡、瀬高は下妻郡なり、此, 關なとには、何かしかありしにか、溝口城も誰かこもりしともしられす、何, 津山の關にて、今の南關北關なといふ間なり、三池の状、馳參肥後國肥猪原, 樣頼尚にいさなはれて、佐殿方したる者共なりつと見えたり、山鹿城は當, りて、其あたり沙汰ししつめ給ひしなるへし、頼親も其間瀬高在陣して、警, とあるは、宮は菊池を出さを給ひて、關城ををめられんとて、肥猪原に御陣, 肥猪原, 關城ノ考, 頼親ノ考, 南朝正平六年北朝觀應二年十月一日, 四七〇
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- 肥猪原
- 關城ノ考
- 頼親ノ考
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- 南朝正平六年北朝觀應二年十月一日
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- 四七〇
注記 (20)
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