『大日本史料』 6編 30 応安元年8月~応安2年6月 p.375

Loading…

要素

割注頭注ノンブル

OCR テキスト

といふ後醍醐帝の略系に、泰成・維成兩親王の御名字を出して、泰成の下に、正平十五, 月、菊池肥前守武澄供奉、皇居於筑前太宰府、其後八代郡高田、康應元年七月二日、於, 生れさせ給ひ、其御弟宮に上野太守説成親王おはしまし、良成親王は、其次の御弟宮に, 當らせ給へは、はやくとも正平十五六年比の御出生にておはせしなるへし、しかるを正, 將軍宮にておはせしことさたかなるへし、しかるに第四の御子泰成親王、正平十五年に, 平中に、鎭西へ下し遣はされしとするときは、廿一二年の間に、御年五六歳にて、筑紫, 説は、外にもさる例ありて、延徳二年二月、宗大和守重澄といふ人、宰府にて書寫せし, 妄説なれとも、詮する所、後征西將軍宮は、はやく御名字を傳へ失ひたるより、かく後, の間にてもおはしつらんと、人にもおもはせんとて、かくおほめかしていひたるさかし, らこと也、さらは後征西將軍は、いつれの宮なりしそといふに、日本史後村上皇子傳に、, 村上の皇子達の中より、此宮ならんかと思ひつきたるを取出して、後征西將軍は此二宮, 年七月、筑紫大原被疵、同年八月一日、於菊池薨、また維成の下に、正平十年乙未二, 古本帝王系圖を引て、第六皇子良成親王を稱鎭西宮と見えたれは、此宮則正しく後征西, 八代薨、, た後征西將軍は此宮にておはしけんと、おし當にいひたることなるへし、かゝる杜撰の, 母左大臣經家公女嘉喜門院、なと見えて、是はいふにもたらぬ杜撰の, 二十一、法, 名悟眞、, トノ説, 良成親王, 親王御誕, 生ノ年月, 南朝正平二十四年北朝應安二年二月十五日, 三七五

割注

  • 二十一、法
  • 名悟眞、

頭注

  • トノ説
  • 良成親王
  • 親王御誕
  • 生ノ年月

  • 南朝正平二十四年北朝應安二年二月十五日

ノンブル

  • 三七五

注記 (24)

  • 1626,652,64,2216といふ後醍醐帝の略系に、泰成・維成兩親王の御名字を出して、泰成の下に、正平十五
  • 1400,648,65,2225月、菊池肥前守武澄供奉、皇居於筑前太宰府、其後八代郡高田、康應元年七月二日、於
  • 487,651,65,2221生れさせ給ひ、其御弟宮に上野太守説成親王おはしまし、良成親王は、其次の御弟宮に
  • 374,650,64,2218當らせ給へは、はやくとも正平十五六年比の御出生にておはせしなるへし、しかるを正
  • 600,647,65,2221將軍宮にておはせしことさたかなるへし、しかるに第四の御子泰成親王、正平十五年に
  • 258,652,66,2221平中に、鎭西へ下し遣はされしとするときは、廿一二年の間に、御年五六歳にて、筑紫
  • 1740,653,64,2214説は、外にもさる例ありて、延徳二年二月、宗大和守重澄といふ人、宰府にて書寫せし
  • 1166,647,70,2223妄説なれとも、詮する所、後征西將軍宮は、はやく御名字を傳へ失ひたるより、かく後
  • 944,657,63,2213の間にてもおはしつらんと、人にもおもはせんとて、かくおほめかしていひたるさかし
  • 830,649,64,2220らこと也、さらは後征西將軍は、いつれの宮なりしそといふに、日本史後村上皇子傳に、
  • 1054,646,67,2227村上の皇子達の中より、此宮ならんかと思ひつきたるを取出して、後征西將軍は此二宮
  • 1511,648,65,2222年七月、筑紫大原被疵、同年八月一日、於菊池薨、また維成の下に、正平十年乙未二
  • 715,651,66,2220古本帝王系圖を引て、第六皇子良成親王を稱鎭西宮と見えたれは、此宮則正しく後征西
  • 1285,655,58,194八代薨、
  • 1854,653,64,2210た後征西將軍は此宮にておはしけんと、おし當にいひたることなるへし、かゝる杜撰の
  • 1286,1100,65,1770母左大臣經家公女嘉喜門院、なと見えて、是はいふにもたらぬ杜撰の
  • 1314,871,44,207二十一、法
  • 1269,864,44,147名悟眞、
  • 680,332,37,122トノ説
  • 722,329,43,164良成親王
  • 603,328,46,169親王御誕
  • 561,327,39,168生ノ年月
  • 143,755,47,865南朝正平二十四年北朝應安二年二月十五日
  • 150,2402,46,119三七五

類似アイテム