『大日本史料』 6編 33 応安3年是歳~応安4年3月 p.312

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輔氏冬・小林民部丞京勢と戰て、雌雄をけつせんと計るといへ共、兵粮の道塞りしか, 前・備中の國人大半時氏に降參せり、時氏下知して、富田判官秀貞・同彈正少弼直貞, に八百餘騎を差添へて、備後國に打入らしむ、江田・廣澤・三吉の一族降參して、二, 徳倉の城に逃れ退く、多治見・楢崎、是を追ひ討て、師季か家人赤木父子を討とる、備, 守降參す、楢崎・多治見、松山の城に入る、當國の守護高越後守師季戰はすして、備前の, 守を大將として、九百餘騎をさしそへ、備中の新見に出張せしめらる處に、飽庭肥前, 兄弟備前の仁万堀に陣せらる、その勢二千百餘騎なり、福林寺・浦上の一族等小勢にし, 千餘騎になる、時氏惣軍を引卒して、播磨路をこへんとせらる、赤松大山に城を構へ, て、戰ひ利なきを察し、師義の陣に降參す、これによりて、多治見備中守・楢崎三河, の院庄に赴き、軍勢を召集め、師義・理をして備前・備中の兩國にむかわせらる、師義, 一同二年壬寅六月三日に、時氏父子五千四百餘騎を卒ひて、伯耆國羽衣石を發し、美作, て、但馬路を差塞き、仁木兵部少輔義尹は和久郷に陣して待掛たり、石橋左衞門佐・, 今川右京亮等義詮の命を受て、三千餘騎にて京都を發し、丹波の篠村につく、中務少, は、勢を引て伯耆にうち入る、同十月七日に、時氏も諸軍を卒ひて因幡國青野庄に, 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日, 進入ス, 備前備中二, 國人降參ス, 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日, 三一二

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  • 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日

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