『大日本史料』 7編 6 応永10年正月~同11年12月 p.331

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是師成親王は周防に下向したまひ、, て周防に下る, を〓し、將に自裁せんとするに、平井道助之をとどめ、強て降を乞はしむ、於, 菊池は, 兵を屋代島に差遣す, を救ふ者なければ、廿二日の曉風に焔吹ちりて、堺の人家一萬軒, 是義弘の舊領豐石紀泉の四州を削り、防長二國を賜ひ、弟六郎盛見を討伐, 月、感山城を修理す、, け、杉生圓明も加援せり、弘茂拒戰數囘、手下の兵二百餘になりしかば、柵門, し、且姪馬場殿五郎滿世を召し出すへしとの台命を被り、本日京師を發し, 七年庚辰七月十一日、先, 盛見豐後に遁, 一宇も殘らす燒亡せり, いづこともなく逃亡し、楠は手下の兵二百餘人を率ゐて大和に遁る、, 火, 冬十二月, る、, 陶山佐渡守高長を以て長門國守護代とす、同上、八年辛巳夏四, 泉寺に於て御落飾、梵阿と御法名あら, 應永記、足利治亂記、南, 明年庚辰二月、吉敷郡上宇野令瀧の法, 記、一萬三, 古文書、○中略、弘茂、周防、長門兩國ノ凶徒ヲ繋, 足利治亂, 方紀傳、京都將軍家譜, ツコトニカヽル、七年七月二日ノ條ニ收ム、, せられしこと、南朝編年紀略に見ゆ、李花集奧書には、惠梵とあり、法泉寺舊, 方紀傳、南朝編年紀略、京都將軍家譜、大日本史、南方紀傳この新介を持, 址に御廟野といふ所ありて、古墓頗る多し、親王法泉寺にて薨したまひ、, 盛とし、系圖には弘茂、盛見と本國に遁れ、罪を謝すとす、共に謬りなり、, ゝに葬り奉る、因て御廟野といふと云へり、いま親王の御と云ふか, 長門國守, 〓ヽ略云々、感山城はいつれの國郡村なるか知られず、, あれど、銘はなし、また政弘卿の墓といふもあり、これも亦無銘なり、, 記、南, とす。, 護代記、, 應永, 千家, 云々、屋代島は周防國大島郡のことなり, 四月廿二日與小野彌四郎資信書、書曰、〓〓〓〓〓〓, 五月一日の同上書曰, 五月一日の同上書曰、〓〓〓〓〓〓〓〓ニ, ○前掲萩藩〓〓録一, テ略, スラ, 陶山佐渡守高長を以て長門國守護代とす、同上、八年辛巳夏四, 墓〓力), 同ジキヲ以テ略ス、, 録ニ同キヲ, 應永十年十月二十日, 三三一

割注

  • 泉寺に於て御落飾、梵阿と御法名あら
  • 應永記、足利治亂記、南
  • 明年庚辰二月、吉敷郡上宇野令瀧の法
  • 記、一萬三
  • 古文書、○中略、弘茂、周防、長門兩國ノ凶徒ヲ繋
  • 足利治亂
  • 方紀傳、京都將軍家譜
  • ツコトニカヽル、七年七月二日ノ條ニ收ム、
  • せられしこと、南朝編年紀略に見ゆ、李花集奧書には、惠梵とあり、法泉寺舊
  • 方紀傳、南朝編年紀略、京都將軍家譜、大日本史、南方紀傳この新介を持
  • 址に御廟野といふ所ありて、古墓頗る多し、親王法泉寺にて薨したまひ、
  • 盛とし、系圖には弘茂、盛見と本國に遁れ、罪を謝すとす、共に謬りなり、
  • ゝに葬り奉る、因て御廟野といふと云へり、いま親王の御と云ふか
  • 長門國守
  • 〓ヽ略云々、感山城はいつれの國郡村なるか知られず、
  • あれど、銘はなし、また政弘卿の墓といふもあり、これも亦無銘なり、
  • 記、南
  • とす。
  • 護代記、
  • 應永
  • 千家
  • 云々、屋代島は周防國大島郡のことなり
  • 四月廿二日與小野彌四郎資信書、書曰、〓〓〓〓〓〓
  • 五月一日の同上書曰
  • 五月一日の同上書曰、〓〓〓〓〓〓〓〓ニ
  • ○前掲萩藩〓〓録一
  • テ略
  • スラ
  • 陶山佐渡守高長を以て長門國守護代とす、同上、八年辛巳夏四
  • 墓〓力)
  • 同ジキヲ以テ略ス、
  • 録ニ同キヲ

  • 應永十年十月二十日

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  • 三三一

注記 (52)

  • 1614,658,61,1059是師成親王は周防に下向したまひ、
  • 577,651,55,416て周防に下る
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  • 211,650,60,628兵を屋代島に差遣す
  • 1030,647,64,1923を救ふ者なければ、廿二日の曉風に焔吹ちりて、堺の人家一萬軒
  • 800,649,63,2204是義弘の舊領豐石紀泉の四州を削り、防長二國を賜ひ、弟六郎盛見を討伐
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