『大日本史料』 7編 12 応永16年7月~同年12月 p.32

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いらせしかは、執事をはじめて當座伺公の大名諸侍みな悦び申けり、, 京都には前將軍義滿公の嫡男義持公すでに天下の政事執行なひ、すなはち土岐右馬允持, 人と成給ふ、時に取て聞つたふるともがら、さても哀れといはぬ人はなし、, 此宗貞の事也、今の入道禪助もかゝるためしをや思はれけん、愁歎の色ふかく世をすて, れ、關東の管領遺跡相違あるまじき旨仰せ下されけり、持氏今年いまだ十二歳、童名幸, 盆をもつて使者とし、御教書をなし下され、左兵衞佐滿兼の御息持氏を左馬頭に任ぜら, 幼稚におはしますだに平人には拔群にして尋常ならす、御成人の後にはさこそ政理に道, 王殿とぞ申ける、何の遠慮も有ましきに、京都の御使節に對面あり、御年よりも才智か, ルニ、鎌倉ノ公方滿兼ハ、夏ノ比ヨリ罹病、心地不例惱玉ヒシカハ、鎌倉中騷動シ、, しこく、進退よろしきに隨かひ、禮儀正しく調をり給ふ、土岐右馬允大に感じ奉り、御, 義を守り給はん、關東の公方と仰ぎ奉らんに、不足なる所はおはしますへからずと讃ま, 〔鎌倉管領九代記〕四上持氏家督, 翌十六年七月ハ、京都ノ將軍義持任内大臣玉フトテ上下鎗ケ, 御家人ノ群參如市、醫療祈祷數ヲ被盡シカトモ、更ニ其驗ナカリケレハ、伺候ノ近臣ハ, 〔中古日本治亂記〕七鎌倉公方滿兼逝去付上杉朝宗遁世ノ事, ○上略、滿兼ノ新第造營ノコトニカ, ヽル、十五年十二月七日ノ條ニ收ム、, 幸王丸才, 智アリ, 應永十六年七月二十二日, 三二

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  • ○上略、滿兼ノ新第造營ノコトニカ
  • ヽル、十五年十二月七日ノ條ニ收ム、

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  • 幸王丸才
  • 智アリ

  • 應永十六年七月二十二日

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  • 三二

注記 (21)

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