『大日本史料』 8編 1 応仁元年正月~同2年7月 p.398

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智院殿と號す、, あり、教豐司職たるによりて、是を沙汰せらる、, 政豐と名つく、, に、教豐陣頭に進み戰れけるを、細川方より遠矢に教豐を射て取らんと, 逆を企て討伐せられ、四人の首京都に登り、室町御所乃四足門にて實檢, 一、應仁元年丁亥四月に、父持豐、細川勝元と合戰に及ふの時に、教豐次將と, 矢を放事數多なり、教豐流矢に左の股を射させたれとも、不日に平愈し, て、後に所々の軍に戰功あり、, なりて、一族家人を進退し、諸軍を整へて戰功あり、同五月廿六日の合戰, を小次郎といふ、將軍義政公の御前におゐて元服あり、一字を賜はりて, 輔豐詮、次は女子、一色修理大夫義春の室なり、, 四十六歳なり、南禪寺の塔頭眞乘院に葬る、法名梅南、道號玄嶺, 政豐は伊豫守教豐の嫡男にして、少名, 一、同年八月に、教豐病にかゝり、同九月九日に、陣中におゐて卒す、時に行年, 政豐, 教豐に二男一女あり、嫡男き右衞門督政豐、正統相續なり、二男兵部少, 大, 應仁元年九月九日, 彈正少弼、從五位下、左衞門佐、, ○四月ノ戰、他, ○此事他二, 從四位下、右衞門督、正四位下, 書二見エズ、, 宗嶺, 所見ナシ, 一に曰, 應仁ノ役, 教豐次將, トナル, 政豐, 應仁元年九月九日, 三九八

割注

  • 彈正少弼、從五位下、左衞門佐、
  • ○四月ノ戰、他
  • ○此事他二
  • 從四位下、右衞門督、正四位下
  • 書二見エズ、
  • 宗嶺
  • 所見ナシ
  • 一に曰

頭注

  • 應仁ノ役
  • 教豐次將
  • トナル
  • 政豐

  • 應仁元年九月九日

ノンブル

  • 三九八

注記 (32)

  • 836,832,52,400智院殿と號す、
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  • 294,832,53,397政豐と名つく、
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