『大日本史料』 9編 12 永正17年雑載-大永元年4月 p.217

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ての加増の所知を與へしとそ、, らは爰を去て暫く山林に隱れ、時節の至るを待へしと、衣笠か家を忍て出られけれは、, 隨從せし兵士、皆思ひ〳〵に散亂す、左京か手の者とも、逃散る者を追懸て、十餘人討, なり、其手の者皆左京に相したかふ、又別所孫二郎は此度の先陣を承りて、加子川迄出, あらは、いかなる變も計りかたし、急き陣をかへたまへと告けれは、常印大に驚き、さ, 張居たりけるか、是も相背くと風聞す、衣笠申けるは、別所と浦上常に不和なれは、一, 三石を出、榛石へ行、左京に其よしを云かたらひしに、左京忽に心を變して、浦上方に, ムルコト、本年九月十七日ノ條ニ見ユ、, 十郎左衞門來りて、弘岡左京こそ村宗に組し、其手の者みな敵になりぬと聞ゆ、かくて, 左京にも、只今迄取來り本知に倍して、所知を行ふへしとありしかは、日興則領掌し、, 味の事は有へからす、三石より謀にいはするならん、常印驚き給ふなと云けるか、久米, 頼ルコト、永正十七年十二月二十六日ノ條ニ、村宗、義村ヲ室津ニ幽シ、自殺セシ, ○義村、足利義晴ヲ奉ジテ播磨置鹽ヲ〓シ、同國榛石ニ奔リテ、衣笠五郎左衞門ニ, 取り、是を此度の左京か高名にして、三石の城に行けれは、今迄の領知の上に赤坂部に, 大永元年二月十一日, 別所則定, 二一七

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  • 二一七

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  • 664,604,58,767ての加増の所知を與へしとそ、
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