『大日本史料』 10編 1 永禄11年8月~同12年2月 p.37

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とて、うをふさをふには討てかゝる、鶉狩乃人々は、此躰を見おにり引返し、, いへとも、堅めにおろそかななれは、互こさり合もなかりしに、伊東陳所桶, 田原山ヲ陳ニ取圍テ番ヲナス、, かは、忠平公、飯野御城を彌堅固に守らせたまふ、伊東方ゟ〓をうかかふと, 之人數を夜の内に伏をかれ、夜明て本地より、桶ケ比良の方え、鶉狩に出立, たる風情にて、少し人數を出されけるに、田原陳ゟ是を見而、遁すな討取れ, ケ比良より北原に當り、本地原と言所は、深き古溝ありて、人數を伏すべき, 此時加久藤、馬關田之百姓共、敵に組し、飯野之城を責んとす、此事洩候得し, 所なるゆへ、忠平公御知謀を以、霜月の比、遠矢下總、黒木播磨主取と而、數多, ○島津義久ト相良義陽トノ和破ルヽコト、十二年三月十八日ノ條ニ、, 良家に心を合、飯野御城之向、桶か比良又田原陳と言所え、八月九日陳を取, 合、サシムキノ飯野ヲ攻ントノ巧也、飯野ハ嶋津兵庫頭在陣也、山東ノ人數, 島津氏ノ軍、菱刈、相良二氏ノ軍ト戰フコト、同年五月六日ノ條ニ見ユ、, 〔舊典類聚, 〔參考〕, 然る處に、永祿十一戊辰年、伊東氏、求摩の相, 〔舊典類聚〕札崎原舊記〓上然る處に、永祿十一戊辰年、伊東氏、求糜の相, ○下, 略, 木崎原舊記, 九〇上, 立崎原舊記〓上, 九, 略, ○上, 永祿十一年八月是月, 三七

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  • ○下
  • 木崎原舊記
  • 九〇上
  • 立崎原舊記〓上
  • ○上

  • 永祿十一年八月是月

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  • 三七

注記 (27)

  • 305,692,63,2214とて、うをふさをふには討てかゝる、鶉狩乃人々は、此躰を見おにり引返し、
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