『大日本史料』 10編 3 永禄12年7月~元亀元年正月 p.285

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駄奉行内藤修理方より、寺尾豐後を使にして、馬場美濃守かたへなそか, ん乃八備に、そふより志田澤の道へおりくをし歸り、ちやうしやの首尾, くる、待よひに更行鐘の聲きけは、あかぬ別の鳥は物かは、馬場美濃守則, と申儀ならんと積給ひ、一戰をいそを度思食候へとも、山縣を始、ゆうく, 功者なれは、かさつになくて、氏康父子旗本をいそおをしつき被成よと、, にかし申へきとの事なりと云、内藤か道のりおをよた、小荷駄あくるを, あふ事遲お子細は、八かしらの人數五千餘なるをもつそかく乃〓し、然, にてましませは、北條上總か備よりはや馬乘二騎あとへゆくを御覽し。, はや馬をもちて使を越候、信玄公弓矢を取く、我朝に多御座なき名大將, かかつて、武田勢をくひとむる、北條家にも、玉繩乃城主北條上總は、弓矢, 夫本意の弓矢功者なれは、旗本乃うし海たくなくして、合戰なるましき, 見ては、もたへこかれて、我意地ましににくるとさたしく、北條家の衆競, まともよお時分にをし〓け、山縣三郎兵衞備さおの見ゆる時分に、小荷, とく、車牛はなれ、牛使もとる也、扨又山の上より信玄公御覽すれは、北條, 氏康父子にいそたをしぼけられよと云使也、敵の内にも、北條左衞門大, 永祿十二年十月六日, 父子ノ出, 綱成氏康, 動ヲ促ス, 永祿十二年十月六日, 二八五

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  • 父子ノ出
  • 綱成氏康
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  • 永祿十二年十月六日

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  • 二八五

注記 (21)

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