『大日本史料』 10編 11 元亀3年12月~同年是歳 p.34

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よし、依之權現樣御機嫌不大形、御悦喜にて、忠勝樣御武功の程を御感心被遊候よし、, 被成御座候よし、御退口にて敵急にしたひ來り候故、御旗を二本くゐに御立置なされ、返, 被成候よし、高聲に御呼り被成、則御實〓に御入被成候得は、御味方大に勢ひ力附申候, め被遊候よし、右の御合戰已後、信玄公へ馬場美濃守申上候は、今度味方ケ原の御合戰, 其夜信玄公陳所へ、權現樣夜軍にて被遊と思召され、大久保七郎左衞門殿をさいかけ迄, 死の事、, 物見に被遣候得は、信玄公用心嚴敷被成、一・二の先手十四備前後へくり替、捨かゝりの, 申候、權現樣濱松の御城へ御人數御引揚被遊候時、本多肥後守忠眞樣は、御旗奉行にて, 本篝を燒、夜を明され候故、その樣子七郎右衞門殿被見屆、具に被申上候故、夜軍御止, し合され、御討死被成候よし、其節忠勝樣法師武者の首壹ツ御取被成、信玄の首を御取, 一、元龜三王申年十二月廿二日、信玄公との御合戰、申の下剋に軍始り、酉の剋に戰ひ終, 急、忠勝下知諸卒、整列伍、全軍自玄默以入濱松、, に、家康の家來何れも神妙成働仕候と申上候得は、信玄公其見立は如何と尋させ候へは、, 〔本多家武功聞書〕遠州味方ケ原御合戰之節、忠勝樣御武功并本多肥後守忠眞樣御討, ○寛永諸家系圖傳、異事ナシ、本朝武林傳、忠勝、五, 六度轡ヲ班シテ、敵ニ接スルコトヲ記ス外、異事ナシ, 元龜三年十二月二十二日, 三四

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  • ○寛永諸家系圖傳、異事ナシ、本朝武林傳、忠勝、五
  • 六度轡ヲ班シテ、敵ニ接スルコトヲ記ス外、異事ナシ

  • 元龜三年十二月二十二日

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  • 三四

注記 (18)

  • 871,671,71,2199よし、依之權現樣御機嫌不大形、御悦喜にて、忠勝樣御武功の程を御感心被遊候よし、
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