『大日本史料』 10編 11 元亀3年12月~同年是歳 p.115

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事疑なし、其時は氏政の表裏人、いかに人質出され候ても、けりをし給はゝ、此所を引, 候、上方武士は、歩の頸を一ッ取ては、侍の頸を十も取たるやうに、針ほとの事を棒程, かひを家康見られて、命なからへ、信玄のことく人數をまはし候はゝ、此世の名聞是に, る儀を、生捕の足輕侍大將衆に申候、此事を馬場美濃信玄公御前にをひて、師〓廿八日, 過ましく候、敵とはいひなから、武田法性院を鳩毒をもつて殺たくは思はぬと申された, 引あけ、刑部へ御陣かへらるゝとき、高坂彈正しんかり被仰付候に、信玄公御人數あつ, 田なるうちに、越後の輝虎去年九月より家康と内通なれは、謙信又上野か信州へ働出る, に過言を申と、山本勘介かはなしをきゝ候ことく有へきなり、縱左樣なく共、敵を奥深, いれなされすは、叶はさる儀なり、其後信長歸陣して信玄を追拂たるといんけん申へく, 彈正申上候に付、廿四日には、遠州をさかへゝ御馬をよせられ、御越年なり、濱松表を, に申上て、次に家康當年卅一歳なれ共、日本國中に、越後の輝虎・三州の家康兩人なら, 此方よりあてかひ有て、信玄公御弓箭譬のたかき御名、少も越度なきことくにと、高坂, て、剛大將御座有間敷候、此度味方か原御合戰に、討死の三河武者下々迄、勝負を仕ら, 戰はする事ならすして、御對陣久しくは、此味方か原に長陣をはり、人馬のつゝき不自, 元龜三年十二月二十二日, 元龜三年十二月二十二日, 一一五

  • 元龜三年十二月二十二日

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  • 一一五

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