『大日本史料』 11編 1 天正10年6月 p.187

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原村の郷人石原源太、土民等を引具し、相向て道を差塞、吉川父子立向、越智, 列成りしか、茫然として是非の詞なし、徳川殿仰に、左樣に忿劇に及處に、他, なき思召に候と諫め申せは、御供の衆一同に、一先ツ三州の方へ御立越御, も、騷動以の外成へし、是非是より直ニ三〓へ御歸國可然と申す、夫より石, 恩院への思召なれとも、かの寺洛外にても京近く候得は、敵徒充滿不仕と, の方へ赴せ給ふ〓しと、本多〓りに申上たり、酒井左衞門尉忠次も、御供の, 國の不案内成塲にて、如何ともの御了簡なし、此邊の寺院に御入有て、暫く, み被遊へしと、越智か下知の由にて、持參の辨當を饗し申す、本多忠勝曰、智, 尤と申す、然らは思召有間、智恩院迄御越有へきと、伏見通へ御志、飯森山の, 前に敵の多勢取詰るとも、可成程は御切拔ケ有へき處に、左もなた内甲斐, 方へ御馬を進められ、河〓より和〓北河越を、城〓乃山田村へ出給ふ、此所, へ吉川主馬、其子治大夫御迎に罷出、和〓の越智玄蕃郷導可仕よし、申付に, 御見合有て、彌敵兵襲來らは、御腹召るゝ外他なしと宣ふ、本多重て曰、今目, 被罷出處に、此道筋御通りに付馳參ル由申上、長尾村の八幡山にて、暫御休, 事淵底存候へは、此道筋へ人數を差向討取んと心懸〓し、一刻も早く三州, 山田村ニ, 北河越ヲ, 出ヅトノ, 飯盛ヨリ, 長尾八幡, 石原源太, 山, 説, 天正十年六月四日, 一八七

頭注

  • 山田村ニ
  • 北河越ヲ
  • 出ヅトノ
  • 飯盛ヨリ
  • 長尾八幡
  • 石原源太

  • 天正十年六月四日

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  • 一八七

注記 (25)

  • 295,612,62,2206原村の郷人石原源太、土民等を引具し、相向て道を差塞、吉川父子立向、越智
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  • 1230,622,59,2200なき思召に候と諫め申せは、御供の衆一同に、一先ツ三州の方へ御立越御
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