『大日本史料』 11編 18 天正13年8月 p.77

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て、此度の御感にも預りし也、此人大名ならは、元親の爲責らるゝか降參するか、二つ, 所領を賜り、子々孫々に至迄全相違あるへからすと、自筆の御判も徒に也、をのか樣, 怺居たる所に、不慮に四國御退治有、其先元親へ降參したる輩をは、皆所帶を召放され, すや、凡高き物は崩れ安く、滿る物は溢れ易し、されは古歌にも、誰も見よ、滿れは頓, 〓浪の身と成中に、得居・來嶋のみ戰功もなきに、反て御感に預るは、小身の徳にあら, て、河野の家斷絶す、其外頼朝卿の御時守護に補せられ、又は足利將軍家或は管領職ゟ, 内はまぬかれし、彼兩家は小嶋にて數にもたらねは、國中平均せはおのつから隨はん事, ん、二三人寄合評しけるは、三好殿に勸賞有は、數度の力戰有て、負ても終に土佐へ降, 恩賞有そといへは、一人進み出て、されは物には一徳有、得居・來嶋は小身成か一徳に, 參し給はす、武士の譽なれは左も有へし、得居・來嶋は一度も敵に出合す、何の功に御, 〳〵成行ける其中に、三好・得居・來嶋は御恩賞を被下けれは、是をそねむ者にや有け, 云に及すと打捨置れぬ、兩家も又武士なれは、敵寄來らは其時の事よと、齒を喰しはり, 武に疎く、遂に元親に屬して、永く社稷を失ひ宗廟を絶て、寄方もなく毛利輝元を頼、, 藝州沼田の庄竹原と云所に忍ひ居て、終に病死をせられける、伊豫親王ゟ六十餘代にし, 恩賞ニ浴ス, 得居來島ノ, ルハ小身ノ, 河野通直安, 藝竹原ニ歿, シ河野家絶, 一徳ナリ, 天正十三年八月六日, 七七

頭注

  • 恩賞ニ浴ス
  • 得居來島ノ
  • ルハ小身ノ
  • 河野通直安
  • 藝竹原ニ歿
  • シ河野家絶
  • 一徳ナリ

  • 天正十三年八月六日

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  • 七七

注記 (23)

  • 895,682,65,2227て、此度の御感にも預りし也、此人大名ならは、元親の爲責らるゝか降參するか、二つ
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