『大日本史料』 11編 18 天正13年8月 p.102

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る、與州は元來輝元と入魂の上、河野は輝元の甥なれは、直行・公廣卿同前に輝元より, 同八月初、安藝の毛利輝元より吉川式部少輔と言侍わたりて、宇和郡七郷の城主三十四, ける、土居・法花津・勸修寺、弓矢取ての面目、時の聞へありかたしと言あへり、わき, 關白殿へ本知の事を可被申とて、秀長・輝元談話して藝州へ人質を出されける、されは, 大將秀長へ目見をいたし、元親降參の事を歎きけり、土佐方いよ〳〵あわてふためく事, 無面目上に、かゝる表裡の侍は、又いかなるたくみをかすへき、何れも下城せよとて、, 無限、扨元親今は本國土佐一州の垤濟て、二男孫四郎を人質に出せは、上方勢は引拂け, 人の内にて、土居清良・法華津秋延・御庄勸修寺、是三人は義者にしてほまれの武士な, り、扨は西園寺公廣卿者、此四人は在城にして、其外一人も不殘下城させたるはなかり, 守・向山内匠、彼是十人、數代の旗頭黒瀬殿を捨て強き元親に隨ひしか、今度又立歸り、, 其六月末に城をは追おろされ、平地に居けるは口惜と言もあまりあり、いかなる事にや、, にての沙汰には、城に居たれはとて加増取る事もなし、下城したれはとて、前々の領分, 西園寺殿旗下にて、北之河親安・莫成親吉・西河四郎右衞門、定信の芝一角・同左京, 進、河原淵芝源三郎、源田竹林院守公義、中野は河野通正、薄木の内にては馬舟淡路, 天正十三年八月六日, 安藝ニ人質, 西園寺公廣, 元親ニ付キ, 下ノ士公廣, シ西園寺〓, ヲ出ス, ニ降ル, 天正十三年八月六日, 一〇二

頭注

  • 安藝ニ人質
  • 西園寺公廣
  • 元親ニ付キ
  • 下ノ士公廣
  • シ西園寺〓
  • ヲ出ス
  • ニ降ル

  • 天正十三年八月六日

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  • 一〇二

注記 (24)

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