『大日本史料』 12編 2 慶長九年三月~同十年二月 p.62

Loading…

要素

頭注ノンブル

OCR テキスト

に越へからす、天の縱せる英才にして、本朝其右に立人難し、秀吉公播州に, れたり、勇猛英武なる事も又世に類すくなし、古の和漢の良將といへ共、是, 明の劉基、大祖を輔しに似て、其功者猶彼に越へたり、孝高七歳にて、寺に入, 初而來り給し時、是を助て、終に天下を平けし事、偏に孝高の智略の功也、孝, て、高名をあらはさる、此時亂世なれは、合戰止事なし、此後、孝高戰にのそむ, らさる人は、秀吉公孝高を取立給ふと思へり、たとへき、漢張良は高祖を助, の息女也、其母き山城の國桂の里の人也、故初は、宗和の息女も隨て桂の里, て書を習へり、十四歳にして母を失ひ、其悲み甚深し、孝高の母ず、明石宗和, の息女の生る所也、明石宗和の子を仙惠と云、仙惠の子を明石左近と云て、, 是秀吉公の時播州明石の城主也、十七歳にて、始て播州の地戰に軍立し, 高を知れる人き、孝高よく秀吉を助て、天下を平けしとをもへり、孝高をし, 嫁せしむ、孝高の弟兵庫助、其妹二人まては、皆孝高と同母の兄弟にて、宗和, 度毎に、武勇を勵し給ふ、十八歳の頃、專歌學を好み、和歌の道を窮めんb, に有しか、十五歳之時、父宗和明石に呼下しけるを、小寺氏養子とし、職隆に, 思へる志あり、されとも、近鄰に圓滿坊と云僧有りて諫けれは、實も今戰國, 明石宗和, 及ビ其子, 如水和歌, 孫, 如水ト秀, ヲ好ム, 吉トノ關, 如水ノ母, 係, 慶長九年三月二十日, 六二

頭注

  • 明石宗和
  • 及ビ其子
  • 如水和歌
  • 如水ト秀
  • ヲ好ム
  • 吉トノ關
  • 如水ノ母

  • 慶長九年三月二十日

ノンブル

  • 六二

注記 (26)

  • 1663,658,73,2210に越へからす、天の縱せる英才にして、本朝其右に立人難し、秀吉公播州に
  • 1780,652,72,2209れたり、勇猛英武なる事も又世に類すくなし、古の和漢の良將といへ共、是
  • 1190,653,82,2216明の劉基、大祖を輔しに似て、其功者猶彼に越へたり、孝高七歳にて、寺に入
  • 1543,655,80,2212初而來り給し時、是を助て、終に天下を平けし事、偏に孝高の智略の功也、孝
  • 373,666,84,2209て、高名をあらはさる、此時亂世なれは、合戰止事なし、此後、孝高戰にのそむ
  • 1311,658,77,2217らさる人は、秀吉公孝高を取立給ふと思へり、たとへき、漢張良は高祖を助
  • 957,662,79,2210の息女也、其母き山城の國桂の里の人也、故初は、宗和の息女も隨て桂の里
  • 1074,656,80,2213て書を習へり、十四歳にして母を失ひ、其悲み甚深し、孝高の母ず、明石宗和
  • 605,665,83,2222の息女の生る所也、明石宗和の子を仙惠と云、仙惠の子を明石左近と云て、
  • 489,661,84,2218是秀吉公の時播州明石の城主也、十七歳にて、始て播州の地戰に軍立し
  • 1424,652,81,2212高を知れる人き、孝高よく秀吉を助て、天下を平けしとをもへり、孝高をし
  • 721,654,83,2220嫁せしむ、孝高の弟兵庫助、其妹二人まては、皆孝高と同母の兄弟にて、宗和
  • 254,663,82,2211度毎に、武勇を勵し給ふ、十八歳の頃、專歌學を好み、和歌の道を窮めんb
  • 841,665,83,2206に有しか、十五歳之時、父宗和明石に呼下しけるを、小寺氏養子とし、職隆に
  • 139,673,84,2202思へる志あり、されとも、近鄰に圓滿坊と云僧有りて諫けれは、實も今戰國
  • 644,293,42,169明石宗和
  • 599,294,41,170及ビ其子
  • 276,297,43,169如水和歌
  • 556,294,41,41
  • 1701,287,41,166如水ト秀
  • 231,302,41,111ヲ好ム
  • 1658,285,38,167吉トノ關
  • 1077,291,41,168如水ノ母
  • 1615,285,43,40
  • 1896,721,43,382慶長九年三月二十日
  • 1910,2451,44,79六二

類似アイテム