『大日本史料』 12編 4 慶長十一年四月~同十二年七月 p.317

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西尾吉定, を憐みおほしめし、療養の料に宛らる、, 利氏實は鶴見市丞利正か男、吉次か養子とれり、別に家を興す、, 三河國西尾に生る、東照宮に仕へたてまつり、御傍に近侍し、釆地二千石, かゝりて奉仕する事あたはさるにより、食祿を辭するの處、台徳院殿これ, 從ひたてまつり、八年十一月二十五日、從五位下丹後守に敍任し、のち奏, 忠永實は酒井河内守重忠か三男、母き山田長門守重辰か女、天正十二年, をたまはる、慶長四年、仰によりて吉次か女を娶る、五年九月關原の役に, 翁梵長淨徳院と號す、武藏國足立郡の妙嚴寺に葬る、室は赤井氏の女、, 守忠永か釆地、下總國香取郡のうちにをいて七百石を分ち賜り、其後、病に, き鈴木三郎大夫吉長か男、母は吉次か女、東照宮に仕へたてまつり、兄丹後, 者の事を勤め、其後吉次か養子となり、十一年十月七日遺領を繼、後忠永, 四郎長孟か祖なり、十一年八月二十六日、伏見にをいて卒す、年七十七、天, 〔寛政重修諸家譜〕, に曾て賜ひし、下總國香取郡の釆地のうち七百石を、吉定に分ち與ふ、, 吉定實き鈴木三郎大夫吉長か男、吉次に養はれ、別家となる、, 西尾隱岐守吉次か養子、實, 小左衞門, 因幡守, 十七, 三百七, 忠永, 利氏, 吉定, 慶長十一年八月二十六日, 三一七

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  • 小左衞門
  • 因幡守
  • 十七
  • 三百七

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  • 忠永
  • 利氏
  • 吉定

  • 慶長十一年八月二十六日

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  • 三一七

注記 (26)

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