『大日本史料』 12編 7 慶長十五年閏二月~同十六年三月 p.266

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有馬伯耆守頼次か養子となる, 重友母は某氏、松平相模守か家臣となる, により、食祿を收めらる, をなけきて、東照宮台徳院殿に言上せしかは、そのこふむねにまかせら, 妻は有馬玄蕃頭豐氏か養女、後妻は池田三左衞門輝政か養女, 吉政母は豐氏か養女、外祖父有馬玄蕃頭豐氏か許にありて成長し、のち, れ、片桐東市正且元に仰ありて、父光重か跡職を繼しめられ、尼崎に住す, の地にをいて死す、年三十三、法名宗戌、葬地壽徳におなし, なきにより、秀頼その所領を沒收せんとす、ときに外祖父輝政このこと, 政長母は輝政か養女、慶長八年尼崎に生る、十五年父死して政長いとけ, こゝにをいて、政長、駿府及ひ江戸に參り、兩御所に拜謝したてまつ, 光延母は政長におなし、別に家を興し、又右衞門政周かとき、宗家をつく, 光重母は山村氏の女、豐臣太閤及ひ秀頼につかへ、のち尼崎の郡代とな, り、近江國のうちにをいて七百石を知行し、慶長十五年五月二十七日、か, る、, 慶長十五年五月二十七日, 歳八, 時に, 徳寺ノ芳春院, ○京都紫野大, 大徳寺中, 芳春院ニ, 吉政, 葬ル, 重友, 光重, 政長, 光延, 慶長十五年五月二十七日, 二六六

割注

  • 歳八
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  • ○京都紫野大

頭注

  • 大徳寺中
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  • 吉政
  • 葬ル
  • 重友
  • 光重
  • 政長
  • 光延

  • 慶長十五年五月二十七日

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  • 二六六

注記 (30)

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