『大日本史料』 12編 7 慶長十五年閏二月~同十六年三月 p.483

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ては志をつくし、御齡かたむきぬれは、御賢子と共に貴賤の崇敬なゝめな, 葬禮は、同十八日午の上刻と定りけれは、國中はいふまてもなく、遠境の寺, の術をつくせとも、さらに其甲斐なし、終に南呂中の十日、朝の露と共に消, 院老若男女、袖をつらねて入來る事引もきらす、宇佐の御許のみ、御神の恐, おはりぬ、嗚呼哀哉、觀花忽に春つきて、命葉零やすき秋一時來事を、老少も, 世のおしみあへる、申も愚成へし、されとも、御身に取ては不足なし、危に臨, ありとて除給ふ、御館より東にあたりて、野かみか原とて、方八町ばつり廣, 小倉の城下なるへしとの御遺訓なれはとて、いそき迎の船よそひ有、結縁, の貴僧百五十餘人、都より招請あり、九月十三日、豐の小くらに著給ひぬ、御, らす、七十七年の春秋をたのしみ給へは、思召をつるゝ事もなし御葬禮は, とより常境なし、おくれさきたつ習なれは、今更なけくへきにもあらねと、, は豐州小倉に住給ひぬ、慶長十四の秋上京あり、かくて翌年の夏の頃より, 授、御門前馬の立あへる隙もなし、是そ誠に文武二道の名將なるへき、近年, の御僧紫野玉甫和尚、南禪寺慶安和尚、天龍寺、相國寺、建仁寺出世七人、其外, 何となく惱給ひけるか、次第ニおもく成ぬ、良醫藥の袋をふるひ給は、祕法, リ葬儀ヲ, 小倉城下, 遣言二ヨ, 葬儀ノ状, 二行フ, 況, 慶長十五年八月二十日, 四八三

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  • リ葬儀ヲ
  • 小倉城下
  • 遣言二ヨ
  • 葬儀ノ状
  • 二行フ

  • 慶長十五年八月二十日

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  • 四八三

注記 (23)

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