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御母堂は菊亭殿へ歸へりたまふといふ, 御一人は、名は國子、菊亭中納言の簾中, 丹波守直經か妻となりたまふ、, 法名を眞容院寶屋受三大姉と云、寛永十九年壬午閏九月, を祐信院殿徳榮壽功大姉と號す、是より先菊亭大納言, 六日沒す、此御母は、純貞に同し, の女を娶りたまひて、, と説っ〓すを歳説ろ五ゝ, となりたまひ、御離別ありて、家臣有馬, 一人は富蘭君と申御一人は於松君と稱す、此御兩人は、甲州にて害し奉り、, 名を於比我志女といふ、正保二年乙酉七月二十九日沒す、法名, 御女子二人御出生あり、御, 藤原晴季, 卿, 子っへ使ら細六一次左さ, な〓ウり一知に記右と, 猶介ふ〓な子歳信手衞, 御靈公御末子は、菊亭氏御歸輿の後御出生ありしか、近衞家の御猶子とな, 一説に、菊亭殿, 後右大臣, 其子經季, の御母堂と云, 匠家藏經孝君よ, は、諸侯互に配偶の儀あるへつらす、, 丹波直經ろ子を、四, 其子季持、, 蓋、肥前の地侍、或は家臣なるへし、, 閏九月なる事、内, 子となり、僧となる事嘉, 今の隼人純, 郎左衞門純則と云、, 申女一人役使のため、井手左五右, 〓公譜末に詳つない, 陳ろ祖なり, り、右京亮殿へ〓らる御書に徴あり、經孝君未詳誰人蓋菊亭家なるへノ, 思はる、再按するに、經孝君者大炊御門左大臣なり、寛文の末、寛存公子其〓, に至る, 本名, 其時の奉行馬場彌次兵衞、さゝと, 草野, らす、信次記には、公の御女子御一人有馬備中に嫁せらると、詳かならす一, 書に、富蘭君九林田圖書介錯於松君七、山尾五左衞門直江彌大夫〓使た, 衞門荷宰領御道具の者太郎兵衞、萬兵衞仰付られ遣はされしと、信次, に見へたり、ふらん君六歳九數「林田圖書介錯し奉り、於松君四歳、〓〓, 直江彌大夫山尾五左衞門兩人にて介錯すと、舊記に見へたり、其子細を知, といふ、或曰富蘭於松二子は御男子なるへし、女子ならは、死に及ふへつら, 今案するに、此時分諸侯各其國に在て、今の世の如く、都下の住居に非され, といふある故其家に就て尋ぬれとも、其事を傳へさるよしにて、辨へ難し、, いと、此説も、又然るへっらすとも云難し、御室御所執達小幡伊勢介つ説に、, 御靈公御末子は、菊亭氏御歸輿の後、御, 慶長十七年三月二十一日, 五四五
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- 一説に、菊亭殿
- 後右大臣
- 其子經季
- の御母堂と云
- 匠家藏經孝君よ
- は、諸侯互に配偶の儀あるへつらす、
- 丹波直經ろ子を、四
- 其子季持、
- 蓋、肥前の地侍、或は家臣なるへし、
- 閏九月なる事、内
- 子となり、僧となる事嘉
- 今の隼人純
- 郎左衞門純則と云、
- 申女一人役使のため、井手左五右
- 〓公譜末に詳つない
- 陳ろ祖なり
- り、右京亮殿へ〓らる御書に徴あり、經孝君未詳誰人蓋菊亭家なるへノ
- 思はる、再按するに、經孝君者大炊御門左大臣なり、寛文の末、寛存公子其〓
- に至る
- 本名
- 其時の奉行馬場彌次兵衞、さゝと
- 草野
- らす、信次記には、公の御女子御一人有馬備中に嫁せらると、詳かならす一
- 書に、富蘭君九林田圖書介錯於松君七、山尾五左衞門直江彌大夫〓使た
- 衞門荷宰領御道具の者太郎兵衞、萬兵衞仰付られ遣はされしと、信次
- に見へたり、ふらん君六歳九數「林田圖書介錯し奉り、於松君四歳、〓〓
- 直江彌大夫山尾五左衞門兩人にて介錯すと、舊記に見へたり、其子細を知
- といふ、或曰富蘭於松二子は御男子なるへし、女子ならは、死に及ふへつら
- 今案するに、此時分諸侯各其國に在て、今の世の如く、都下の住居に非され
- といふある故其家に就て尋ぬれとも、其事を傳へさるよしにて、辨へ難し、
- いと、此説も、又然るへっらすとも云難し、御室御所執達小幡伊勢介つ説に、
- 御靈公御末子は、菊亭氏御歸輿の後、御
柱
- 慶長十七年三月二十一日
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- 五四五
注記 (52)
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