『大日本史料』 12編 19 元和元年五月 p.635

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り内匠か子かと尋る事、其名泰山よりも重く候、鳴海丹後守は勇士にて, 返し候へと下知仕候へとも、聞も不入皆崩懸り候、其時日向守家來廣田圖, 也、越中守此口の軍打勝て敵を追拂、逃るを追て柵まて押詰候, 守に成て四千石、藪新太郎は暇を取、紀州へ奉公也、, たる明石掃部は、大野修理方よりの使によつて、天王寺の西岸陰より、寄手, 私云、是にて藪内匠か武勇をおもふへし、藪新太郎と名乘りたれは、敵よ, しかも風雅なる人にて、風月の才有、亂舞音曲も長し、三齋の出頭人なり, 候、其口へ先に押込候寄手とも、是ニ驚て崩立、日向守手前へ逃懸り候、日向, 水野日向守は、天王寺の西より船場の道へ心けし押込候處ニ、船場ニ陣取, 守馬より下立、ざいを取、比興者共、何方へ逃候哉、日向守是に有り、見知たる, 來候、はや天王寺敗軍ニ付、明石討死と志し、〓炮を放立、其儘馬を入懸り來, の脇へ廻り横合ニいれんため、去ル冬陣ニ、藤堂和泉か仕寄道に懸り押上, 日討死せしと也、又村上縫殿は、後長岡河内ニ成二万石、清田七介は石見, 一年不足申て立退候を、増田藏人か訴訟にて歸參候、三齋の恩を感し、今, 高名二ツなり、其外佐藤將監、都築庄介、鳴海丹後守手柄仕候、丹後守は討死, 鳴海丹後, 武勇, 藪内匠力, 明石全登, 天王寺二, 船場ヨリ, 向フ, 守, 元和元年五月七日, 六三五

頭注

  • 鳴海丹後
  • 武勇
  • 藪内匠力
  • 明石全登
  • 天王寺二
  • 船場ヨリ
  • 向フ

  • 元和元年五月七日

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  • 六三五

注記 (25)

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