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奥如〓迄ハ行宮外}〓歸在宮ろとの後盛, 後事〓へれ〓田ハとれハ親出と事國之2, せ}りつggら兵て大此遺竹〓女婦へ商ハ息る妻親坊田gハ其るれ, へ答く丸っく命揚を落〓1家和話一き}詳奧〓亡郎波事佐ハ人つ, 上ら候腰けれ全ん立城るもあ漢も人つかきき州りの母〓實の殺正と, ら捨るくれ原く義ニ夢ハ佐佐もつ夫云ると消つム盛に津}者がと2, 長曾我部右衞門太郎、法名幽夢、大坂落城の前日、普代のをのをあつめ、汝, ノて内我つあ子るっきゆ尋}事來こ迄盛記之當生家, 〓れは、奥州の事と矛盾せり、しつるに奥州の話は、中山覺兵衞以來たし, 〓すして、讚岐に留り、田宮源八か妻となり、坊太郎を生りとあり、これにて, にや、石川か状之屏風の事を以云へは、きつと婚禮したる事と見ゆれは、適, のと居くをんのへ〓り共盛とととiるの坊後ハるよ縁害宗ら, 仕へ、柴田内藏介といへり、土佐遺語にものつ, なる事にして、石川八右衞門つ消息其詳なるをいたせり、讚州の事い外に, 知多し、(〓外)「再考、當國久禮浦ニ佐竹之家あり、元親之姉を嫁し有子、後奥州, ソし妾娘にてやあるへき、米原か女の話も、盛親の子之男女もわつたす、年, 妻と見えぬ、米原ろ女の見たる夫婦子一人といへるか、かのさぬきへ迄需, 蟄居の時分の妾腹の子にして、盛親敗亡の後、妾つれ遁れ、本國へ迄は歸り, 州此年歸適つgろてり京坊くつ中取親, 京ととハ人しを功坂事語之)、の子人ハ其〓と敗太丹て土子婦1., 頃の説もな〓れは、考ふへき道もなし、和漢共史傳之事實異同ある事如此, れり、柴田外記當國へ縁ありとは此事なるへし、, 證すへき事なし、田宮物語はうたつはしきをのなり、されとも〓し田宮つ, ま1ヘろて内を重此名りり浦き米とを先ハ門り源, いてのけそ葭しめる城幽と土こ道原る以達うっあ八て中〓せ拙}}氏, tり二十年はかり已前、宮田氏りれにつたらく、奥州之柴田外記家は、盛親, ら、れたりとも、何とそ謀をめくらし、命全くせんとて落られ、河内の禁野, 落ぬへし、我に志あらは、重〓義兵を揚んをまつき來るへし、若我いけ, 門に告しかは、鉄炮提出て、〓れに人かけみゆる、是へ出られ候へ、さな~, 市邊茂右衞門やしきの内葭原にらくれ居られしを、小者かて、茂右衞, 立らそ、柴田の家となし給ひしが、其子は殺害にあへるとモ、外記、當國の中, レすしめ也、盛親の子を孃妊したる婦人、正宗卿養育ニて、其子出生之後取, 等はやく何國へも落よ、此城ニて功を立ん事、今は叶つたし、みつからも, 山覺兵衞へ、江戸にて會し時、拙者は土佐の縁なりとて、毎々當國之事たつ, れり、柴田外記當國へ縁ありとは此事なるへし、, せるは、予の聞誤にて有〓らし、津田丹波なる事分明なり、又按るに、田宮坊, 事も實ならは、盛親の男子、先達〓商人にかとはされ、盛親の適室尋年行, tり二十年はかり已前、宮田氏われにつたらく、奥州之柴田外記家は、盛親, 仕へ、柴田内藏介といへり、土佐遺語にもあつ, 證すへき事なし、田宮物語はうたつはしきをのなり、されともをし田宮ハ, ハ鉄炮打つけ候と聲をかけしつは、丸腰の人出て、我は落人〓て候、侍は, にや、石川か状之屏風の事を以云へは、きつと婚禮したる事と見ゆれは、適, 蟄居の時分の妾腹の子にして、盛親敗亡の後、妾つれ遁れ、本國へ迄は歸り, ソし妾娘にてやあるへき、米原か女の話も、盛親の子之男女もりつたす、, 妻と見えぬ、米原つ女の見たる夫婦子一人といへるか、かのさぬきへ迄歸, 頃の説もなbれは、考ふへき道もなし、和漢共史傳之事實異同ある事如〓, 太郎敵討物語とて小册有、其中に坊太郎母は盛親の娘也、これは盛親在京, 長曾我部右衞門太郎、法名幽夢、大坂落城の前日、普代のシのをあつめ、汝, なる事にして、石川八右衞門か消息其詳なるをいたせり、讚州の事い外, チありしよし也、石川つ云越せしにて事實よく見えたり、柴田外記とろ, 盛親河内, 〓野ノ市, トシテ逃, 邊茂右衞, 門屋敷ニ, 盛親再擧, 匿ル茂右, ヲ謀ラン, 衞門之ヲ, 憐ミ放ツ, 元和元年五月十五日, 四三二
割注
- ら、れたりとも、何とそ謀をめくらし、命全くせんとて落られ、河内の禁野
- 落ぬへし、我に志あらは、重〓義兵を揚んをまつき來るへし、若我いけ
- 門に告しかは、鉄炮提出て、〓れに人かけみゆる、是へ出られ候へ、さな~
- 市邊茂右衞門やしきの内葭原にらくれ居られしを、小者かて、茂右衞
- 立らそ、柴田の家となし給ひしが、其子は殺害にあへるとモ、外記、當國の中
- レすしめ也、盛親の子を孃妊したる婦人、正宗卿養育ニて、其子出生之後取
- 等はやく何國へも落よ、此城ニて功を立ん事、今は叶つたし、みつからも
- 山覺兵衞へ、江戸にて會し時、拙者は土佐の縁なりとて、毎々當國之事たつ
- れり、柴田外記當國へ縁ありとは此事なるへし、
- せるは、予の聞誤にて有〓らし、津田丹波なる事分明なり、又按るに、田宮坊
- 事も實ならは、盛親の男子、先達〓商人にかとはされ、盛親の適室尋年行
- tり二十年はかり已前、宮田氏われにつたらく、奥州之柴田外記家は、盛親
- 仕へ、柴田内藏介といへり、土佐遺語にもあつ
- 證すへき事なし、田宮物語はうたつはしきをのなり、されともをし田宮ハ
- ハ鉄炮打つけ候と聲をかけしつは、丸腰の人出て、我は落人〓て候、侍は
- にや、石川か状之屏風の事を以云へは、きつと婚禮したる事と見ゆれは、適
- 蟄居の時分の妾腹の子にして、盛親敗亡の後、妾つれ遁れ、本國へ迄は歸り
- ソし妾娘にてやあるへき、米原か女の話も、盛親の子之男女もりつたす、
- 妻と見えぬ、米原つ女の見たる夫婦子一人といへるか、かのさぬきへ迄歸
- 頃の説もなbれは、考ふへき道もなし、和漢共史傳之事實異同ある事如〓
- 太郎敵討物語とて小册有、其中に坊太郎母は盛親の娘也、これは盛親在京
- 長曾我部右衞門太郎、法名幽夢、大坂落城の前日、普代のシのをあつめ、汝
- なる事にして、石川八右衞門か消息其詳なるをいたせり、讚州の事い外
- チありしよし也、石川つ云越せしにて事實よく見えたり、柴田外記とろ
頭注
- 盛親河内
- 〓野ノ市
- トシテ逃
- 邊茂右衞
- 門屋敷ニ
- 盛親再擧
- 匿ル茂右
- ヲ謀ラン
- 衞門之ヲ
- 憐ミ放ツ
柱
- 元和元年五月十五日
ノンブル
- 四三二
注記 (62)
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