『大日本史料』 12編 25 元和二年五月~同年是歳 p.189

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谷に移を給ふ, 興國公遊ひ居給ふを、かの狂僧かき抱き奉りて、一間に取籠る、大勢取かこ, へき旨台命ある、其後寛文七年、御改葬有て、興國公御柩、京都より備前和意, 有、將軍家より牧野傳藏を添らる、京に登り御保養ありけれとも、日を追て, なかりし時、持教といふ御祈祷僧の弟子、狂氣して城内に走り入る、折ふし, 肖像を安置す、三間に四間の堂あり、伊木一族の墓所多し、興國公御いとけ, 國寺にも御位牌有、是は備後守殿より安置せらるゝ也、興國公常に尊信し, 給ふ釋迦并正觀音地藏等三ツ、惠心作の佛像有しを、伊木長門菜地播州三, 便り少くならせ、終に六月十三日、京都四條京極丹後守の邸にて薨し給ふ、, 興國公、江戸におはしけるか、夏の頃より不圖重お疾にそみ給ひ、御暇の仰, 時に御歳三十三、妙心寺寺中護國院に葬奉る、法名興國院殿俊岳宗傑大居, 士と申奉る、諸士剃髮して播州に歸る、御計音江戸に達しけれは、其翌日上, 木芝町に一寺を立、正入寺と號し、寺領十三石の禪刹有、此寺内に興國公の, 使として、酒井雅樂頭、土井大炊頭を以て、遺跡もとの〓く、烈公領知をらる, 護國院御墓地の跡今猶存す、播州宍粟興, 〔池田家履歴略記〕四元和二年丙辰、興國公薨、烈公嗣、, 委しくは寛文七年、, 御改葬の條に載す, 谷ニ改葬, 葬ル, 護國院ニ, 備前和意, 妙心寺中, ニ卒ス, 利隆京都, ス, 元和二年六月十三日, 一八九

割注

  • 委しくは寛文七年、
  • 御改葬の條に載す

頭注

  • 谷ニ改葬
  • 葬ル
  • 護國院ニ
  • 備前和意
  • 妙心寺中
  • ニ卒ス
  • 利隆京都

  • 元和二年六月十三日

ノンブル

  • 一八九

注記 (28)

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