『大日本史料』 12編 25 元和二年五月~同年是歳 p.215

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レス、信ヲ守リ、行ヲ果ス、眞ノ男子ト謂ヘシ、, よりいそき歸らせ給ひ、直こ豐前の家へ入らせ〓〓ひ、病氣御尋あり、又使, しも心に掛たる事なしとあららかに申せは、宮内殿も、甲斐守も打笑ひて、, れり、興國の弟宮内少輔忠雄の後見たりし、公邊の事は、加々爪甲斐守に相, 幼少ニ候得は、某計ひかたしと申けれは、宮内殿不機嫌なりき、此外こは少, の刀を、宮内殿借用有らんとの事に候を、殿十五歳より以後は格別、只今は, 此取計ひたりと、一々詳に答申せは、兩人共座を立んと被致候時、豐前押留, 今日の事はいはれ有ての仰と存候、其子細は、新太郎殿之家に傳候大包平, 門、旭川の川端へ出て、水つかいし事定れり、其心を知らすといへとも、心を, 談なり、或時忠雄公、甲斐守寄合の席にて、豐前を被呼出、仕置ニ私ありと被, 用ひしに、謂れありしにや、豐前老年こ及、病氣俄に重くなりしに、烈公鷹野, とかくの返答なかりしとそ、寛永の際、備前に國替被仰出し後、豐前毎日早, 朝に、侍壹人、短柄のかき鑓に手拭を付て、草履取一人、以上四人にて、城の東, 攻、豐前其儀はケ樣の所、其事は如此の譯也、或は土井大炊頭内意なる故、如, 〔藩史別録〕興國公御逝去の後、烈公御幼少のゆへに、日置豐前國政を司と, 豐前忠雄, ヲ屈ス, ノ行状, 日置豐前, 備前國老, 光政豐前, ヲ悼ム, 元和二年六月十三日, 二一五

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  • 豐前忠雄
  • ヲ屈ス
  • ノ行状
  • 日置豐前
  • 備前國老
  • 光政豐前
  • ヲ悼ム

  • 元和二年六月十三日

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  • 二一五

注記 (24)

  • 1929,667,58,1280レス、信ヲ守リ、行ヲ果ス、眞ノ男子ト謂ヘシ、
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