『大日本史料』 12編 34 元和六年七月~同年閏十二月 p.439

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新左衞門に與へし文書に、武州高山知行之内神田川よけの郷進之候と見, へたり、此神田川と書しゐ、何の邊を指ていへなにや詳にさす、されと前の, 上水の條にもしるす〓く、慶長の頃、神田明神山の岸の水を御城下東北の, 池の邊を歴て、淺草川に合さる如くおもはるれは、文書に記さし神田川も、, 町へ流さし由見聞集に記さしぬ、全く今の御茶水筋の川にて、下流於玉り, とにかく此川を指ていへるなるへし、今神田川といふゐ、船河原橋, 此川昔は水も深からすして、舟運送の不便なりしを、万治年中、松平陸奧守, 凡十町計あり、享保年間、此所の堤に悉く柳を栽させらる、, 綱宗に命して、船入の川に堀割さ給ひし事ゐ、諸記に見へ〓り、, 堤の外は神田川なり、又此堤の下に柳森稻荷と稱する叢祠あり、故に, 此地を稻荷河岸と呼へり、, 邊より、御茶水及柳原堤外を過て、淺草川に落合へるまての呼名なり、, 〔江戸名所圖會〕〓樞之部柳原封〓筋違橋より淺草橋へ續く、其間長, 〔江戸名所圖會〕, 寛永十一年の江, 戸繪圖にや、柳堤, しなへて、柳原といし廣原なりしとなり、, 昔は神田川の隔もなく、此川の南北ともにお, とあ, んと橋, 俗にど, とい, り、, ふ、, 柳原の土, 手, 元和六年是秋, 四三九

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  • 寛永十一年の江
  • 戸繪圖にや、柳堤
  • しなへて、柳原といし廣原なりしとなり、
  • 昔は神田川の隔もなく、此川の南北ともにお
  • とあ
  • んと橋
  • 俗にど
  • とい
  • り、
  • ふ、

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  • 柳原の土

  • 元和六年是秋

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  • 四三九

注記 (28)

  • 1891,651,60,2183新左衞門に與へし文書に、武州高山知行之内神田川よけの郷進之候と見
  • 1778,658,58,2172へたり、此神田川と書しゐ、何の邊を指ていへなにや詳にさす、されと前の
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