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の船入なり、鹽硝藏なり、慶安二年に埋んて、人家とし、船入地を隨〓寺の北に移す、, は、今の牢の町、長柄組屋敷の地、昔の城の三の曲輪、牢屋の蹟なり、華嶽寺門前より, 元祿の時、又此地を埋むて、白地とす、中洲の惣門は、昔の城の大手の門なり、長直公、, の大手櫓より少しく西に當る、今は此町四町目の北移つて、東西の町となる、風呂屋町, となる、田町は、始は葭原也、姫路代の時、假屋の住人前川道可、河内守殿の家來某に, 承應二年癸巳に、又南の方を埋むて、人家とす、中洲は昔の川中の洲なり、輝興公の時, 筑地といふ、又その西を長地といふ、築地の南は昔の城搦手口の廣少路なり、橋の東に, 南三十五間に當つて、石橋あり、是より南を横町といひ、北を橋の町といふ、橋の西を, を作る、政綱公入部の時、又此道を修理して、〓を作る、垂水半左衞門奉行す、此時人, 夫罪を犯し、過料銀百文目を出す、因て百目〓と名つ□、元祿の後は、此促絶て、田地, 小畑あり、今の横町中屋か邊なり、天正十年三月、秀吉公、姫路より備中へ發向の時、, 乞ひ求めて、田地とす、慶安四年辛卯、長直公、其頃の田地八反を埋んて、人民とす、, 當所を過く、人數押のために、始て百目堤の道を開く、坂越・木津・尾崎の三村より道, 今の所に移す、遙に町屋を離たることを、時の人これを議す、後に人家たちつゝきたる, 元和七年雜載, 船入, 鹽硝藏, 百目堤, 元和七年雜載, 二二〇
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- 船入
- 鹽硝藏
- 百目堤
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- 元和七年雜載
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- 二二〇
注記 (20)
- 559,578,66,2112の船入なり、鹽硝藏なり、慶安二年に埋んて、人家とし、船入地を隨〓寺の北に移す、
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