『大日本古文書』 伊達家文書 10 伊達家文書之十 p.604

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左中將從四位上致仕後左兵衞督, 實は家臣伊達肥前宗房か男、母學片倉小十郎景長か女、, しめて常憲院殿にまみ〓〓てまつ〓、十一月二十六日御前にをいて元服し、御諱の字, 參し、經書を講し〓まふを拜聽す、十六年八月二十五日封を襲、二十六日陸奧守にあらき, 人國の暇たまふにより、吉光乃御脇指を〓まふ、享保二年六月十四日、さきに吉村か献す, かところの獨活澤といへる大鷹、しは〳〵御拳にて獲ものあり、御喜色乃む〓、若年寄大, 領をたタは里、二十七日家臣等にシ物を〓たふ、十月二十八日、有章院殿御代はしめて, を〓〓はりて、吉村とあら〓め、從四位下侍從に〓任し、越前守と称す、この日左文字の御, のとき、來國光の御刀をたまふ、三年七月八日奉書もて母の喪戍弔はせ〓たふ、七年四月, 久保佐渡守常春より仰をす〓ふ、のちも献するところの馬鷹逸物お不く、御旨にかなふ, あり、十八日從四位上中將に昇進す、三年九月十五日、日光山乃普請成就により、時服五十, 延寶八年仙臺に生る、元祿八年十二月二十六日綱村の養子となり、九年正月二十八日は, 一十一日、文昭院殿御代はしめて入國のいとヌをたまふにより、備前兼光乃御刀を拜, を〓つ稀けせ〓まふ、十七年三月二日奏者番稻葉佐渡守正親をもつて實母乃喪を弔ら, 力裁〓及はる、十三年九月十三日、水戸宰相綱條卿乃館にならせ〓まふのとき、吉村も豫, ゝむ、實永元年四月二十三日はしめて入國乃いとヌを壹まひ、二十八日この事を謝する, さる、三年四月十五日、有徳院殿御代はしめて封地にゆく乃いとは〓まふによ〓、光包, の御脇指を〓まふ、四年三月二十一日、父綱村病篤きにより、期に先壹ちて參府せんこと, む、九月十四日襲封の事を謝す、このとき家臣九人御前に出お、十二月二十一日少將にす, 吻す、正徳元年六月四日、奏者番松平備前守正久をして祖父乃喪をとぬらはせ〓まふ、十, 一月十七日日光山御宮をよひ諸堂の普請をたす〓勤むへきむ手仰をかう多り、十二月, 守政森をもて父か喪をとめらはせ〓たふ、八月十二日父乃遺物、牧溪の畫〓お柳に燕乃, 朔日、吉村か多病た御よしきこしめされ、普請中かの地に滯留するに及はさまむ〓恩命, 掛幅を献す、十二月二十七日上使もて御鷹し鶴を〓まふ、乃ち代々例とす、七年三月二十, 乃むしは〳〵仰をかうもる、十二月五日、實母乃病により國にゆかむこと就こふ、即日, 御ゆなしあり、かの老中戸田山城守忠眞をもつて、御心もとれくお不しめすのむな仰下, 我こふ乃ところ、御ゆるしあお乃む〓奉書もて仰下さは、六月二十一日奏者番内藤丹波, 二日仰によ里て日本惣風土記殘篇一册を献す、九年二月三日居邸延燒せるにより、上使, もて問せたまひ、十六年四月十六日また御使を下され、居邸をよひ別業災にかゝりし事, 附録, 六〇四

  • 附録

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  • 六〇四

注記 (31)

  • 1799,796,50,847左中將從四位上致仕後左兵衞督
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