『維新史』 維新史 3 p.705

Loading…

要素

頭注ノンブル

OCR テキスト

は、僅かに二箇月餘にして廢絶したのである。, 任歸國の聽許を請ひ、早くも二月二十八日に京都を發して歸藩の途に就いた。, 參豫を命ぜられたが、慶勝は之を固辭して受けなかつた。尋いで三月九日には, る時に際會して、自藩の海防施設を整へ、藩論を統一するを急務としたこととに, 慶喜を始め慶永・宗城・久光及び松平容保等は、孰れも參豫の辭表を奉り、朝廷は之, 斯くて參豫諸大名は、漸く幕府の態度に失望して國事周旋に倦み、政治に對す, 趨勢を察知して、努めて政治に關與するを避けてゐたが、參豫拜命後は〓りに辭, 至つた。是一は長期の滯京に依つて鉅額の藩費を要するのと、一は時局重大な, 上京してゐた諸大名も亦、政治に對して倦怠の念を生じ、漸く歸藩を冀望するに, 京都に於ける公武合體運動が遂に徒勞に歸せんとするや、曩に朝召を蒙つて, 又恰も二月二十六日に入京した前尾州藩主徳川慶勝に對して、朝廷は三月三日, る熱意を失つて、相踵いで辭任歸國するに至つた。山内豐信は豫てより斯かる, を聽許あらせられた。茲に於いて文久三年十二月に設けられた朝政參豫の制, 依るものである。加ふるに多數の大名の滯京することは、却つて其の間に反目, 諸大名の, 名の辭任, 退京, 參豫諸大, 第十二〓公高合體運動の進展, 〓〇六

頭注

  • 諸大名の
  • 名の辭任
  • 退京
  • 參豫諸大

  • 第十二〓公高合體運動の進展

ノンブル

  • 〓〇六

注記 (20)

  • 823,584,67,1283は、僅かに二箇月餘にして廢絶したのである。
  • 1394,585,81,2251任歸國の聽許を請ひ、早くも二月二十八日に京都を發して歸藩の途に就いた。
  • 1159,580,83,2305參豫を命ぜられたが、慶勝は之を固辭して受けなかつた。尋いで三月九日には
  • 320,573,80,2293る時に際會して、自藩の海防施設を整へ、藩論を統一するを急務としたこととに
  • 1040,579,83,2303慶喜を始め慶永・宗城・久光及び松平容保等は、孰れも參豫の辭表を奉り、朝廷は之
  • 1747,654,79,2231斯くて參豫諸大名は、漸く幕府の態度に失望して國事周旋に倦み、政治に對す
  • 1511,591,80,2299趨勢を察知して、努めて政治に關與するを避けてゐたが、參豫拜命後は〓りに辭
  • 440,572,82,2299至つた。是一は長期の滯京に依つて鉅額の藩費を要するのと、一は時局重大な
  • 566,575,82,2294上京してゐた諸大名も亦、政治に對して倦怠の念を生じ、漸く歸藩を冀望するに
  • 691,637,82,2233京都に於ける公武合體運動が遂に徒勞に歸せんとするや、曩に朝召を蒙つて
  • 1275,582,83,2303又恰も二月二十六日に入京した前尾州藩主徳川慶勝に對して、朝廷は三月三日
  • 1628,597,80,2288る熱意を失つて、相踵いで辭任歸國するに至つた。山内豐信は豫てより斯かる
  • 923,579,83,2298を聽許あらせられた。茲に於いて文久三年十二月に設けられた朝政參豫の制
  • 193,566,81,2301依るものである。加ふるに多數の大名の滯京することは、却つて其の間に反目
  • 726,311,39,165諸大名の
  • 1740,330,42,166名の辭任
  • 680,310,38,82退京
  • 1787,333,42,164參豫諸大
  • 1879,748,51,752第十二〓公高合體運動の進展
  • 1868,2413,42,119〓〇六

類似アイテム