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至つた。, を介し, 痘の三科を分ち、西洋醫方を講習する所と爲したが、翌三年二月西洋の二字を削, つて、單に醫學所と改め、其の内容は盆整備するに至つた。此の間、俊齋は歿して、, 官松本良順, て移轉した。同年十月に至り、種痘所は幕府の管する所となつて、俊齋が初代所, 長に任ぜられた。文久元年十月種痘所を改めて西洋醫學所と稱し、教授・解剖・種, ので、玄朴等は府内の洋醫八十餘名の〓金を得て、神田阿玉池に種痘所を設置し、, て、幕府に種痘所設置の許可を願出でた。翌五年正月に至り、幕府は之を許した, 是より先、安政四年八月伊東玄朴・大槻俊齋等は勘定奉行川路聖謨, 一般衆庶の施術に當つた。次いで萬延元年七月に新館を下谷和泉橋通に設け, 政五年七月三日將軍家定の病篤きに際しては、洋醫伊東玄朴・戸塚靜海等を醫官, 大坂より有名な緒方洪庵が招かれて頭取となつたが、洪庵も亦幾ばくもなく歿, に登庸して、治療に從事せしめ、同六日に至り、遂に醫官の洋方兼修の禁を解くに, て醫學館も漸く洋方を抑壓する力を失ふに至つた。次いで安政四年幕府は醫, の請を容れて、長崎に赴き洋方を修業することを許した。更に安, 左衞, 門尉, 後, 順, 醫學所, 第三章新條約國と西洋文化の移入第二節洋學の獎勵, 三三七
割注
- 左衞
- 門尉
- 後
- 順
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- 醫學所
柱
- 第三章新條約國と西洋文化の移入第二節洋學の獎勵
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- 三三七
注記 (23)
- 1422,580,53,197至つた。
- 1299,2679,45,175を介し
- 598,573,58,2284痘の三科を分ち、西洋醫方を講習する所と爲したが、翌三年二月西洋の二字を削
- 483,582,59,2286つて、單に醫學所と改め、其の内容は盆整備するに至つた。此の間、俊齋は歿して、
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- 718,573,62,2286長に任ぜられた。文久元年十月種痘所を改めて西洋醫學所と稱し、教授・解剖・種
- 1059,580,60,2289ので、玄朴等は府内の洋醫八十餘名の〓金を得て、神田阿玉池に種痘所を設置し、
- 1172,576,63,2285て、幕府に種痘所設置の許可を願出でた。翌五年正月に至り、幕府は之を許した
- 1293,641,59,1885是より先、安政四年八月伊東玄朴・大槻俊齋等は勘定奉行川路聖謨
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- 1766,990,63,1870の請を容れて、長崎に赴き洋方を修業することを許した。更に安
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