『日本関係海外史料』 オランダ商館長日記 27 訳11 1647年10月-1649年10月 p.1

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〔一六四七年〕, 〔一六四七年〕十一月(, ける日記, 一六四七年十一月三日から一六四八年十二月九日, の書記官, によって記された、, 〓全東インド会社の日本に於ける貿易の長たるフレデリック・コイエット, ルレハールスベルフ号へ送って行った。夕刻、私の住居で、知事権八殿, に至る長崎に於, 及びその他への贈物の品々を点検した。, 三日ウィレム・フルステーへン閣下, 進物の点検が、皇帝, ンダ東インド会社の職員として平戸に勤務し、一六三四年からは長崎に駐在した。一六三九年、妻とその両親(メ, をフライト船ヒ, ヒオール・ファン・サントフォールト及びその日本人妻)とともに長崎を退去した。この件については本書訳文編之四, ○正保四年十月五日に始ま, り同年十一月四日に及ぶ, 攻撃により一六六二年ゼーランディア城が陥落すると、フォルモサ島喪失の責任を問わ, ○日記本文は十一、, 月八日で終わる。, 記の著, れ、バンダ諸島のアイ島へ流罪となる。後に赦されて一六七四年にオランダへ帰還っ, ○本日, 川家光, ○長崎奉行山崎, 六四八年及び一六五二-一六五三年に長崎商館長として日本に勤務。一六五七年フォルモサの長官となるが、鄭氏の, 権八郎正信, ○前長崎商館長(一六四六-一六四七年在任、在任中の日記は本書, 参看。一六四〇年一月バタフィアの法務委員会書記に任命された。一六四七年一月に日本を去, てからは東インド評議会員外参事に昇進。以後の経歴については本書訳文編之十、一頁参看, 訳文編之十に所収)。フリッシンゲン生まれ。一六二九年からオラ, 者。ストックホルム生まれ。一六四三年にオランダ東インド会社上級商務員としてバタフィアへ来着。一六四七, ヒオール・ファン・サントフォールト及びその日本人妻)とともに長崎を退去した。この件については本書訳文編之四, )将軍徳, ンダ東インド会社の職員として平戸に勤務し、一六三四年からは長崎に駐在した。一六三・九年、妻とその両親(, へン出発, フルステー, ウィレム, 進物の点拾, 一六四七年十一月長崎にて

割注

  • ○正保四年十月五日に始ま
  • り同年十一月四日に及ぶ
  • 攻撃により一六六二年ゼーランディア城が陥落すると、フォルモサ島喪失の責任を問わ
  • ○日記本文は十一、
  • 月八日で終わる。
  • 記の著
  • れ、バンダ諸島のアイ島へ流罪となる。後に赦されて一六七四年にオランダへ帰還っ
  • ○本日
  • 川家光
  • ○長崎奉行山崎
  • 六四八年及び一六五二-一六五三年に長崎商館長として日本に勤務。一六五七年フォルモサの長官となるが、鄭氏の
  • 権八郎正信
  • ○前長崎商館長(一六四六-一六四七年在任、在任中の日記は本書
  • 参看。一六四〇年一月バタフィアの法務委員会書記に任命された。一六四七年一月に日本を去
  • てからは東インド評議会員外参事に昇進。以後の経歴については本書訳文編之十、一頁参看
  • 訳文編之十に所収)。フリッシンゲン生まれ。一六二九年からオラ
  • 者。ストックホルム生まれ。一六四三年にオランダ東インド会社上級商務員としてバタフィアへ来着。一六四七
  • ヒオール・ファン・サントフォールト及びその日本人妻)とともに長崎を退去した。この件については本書訳文編之四
  • )将軍徳
  • ンダ東インド会社の職員として平戸に勤務し、一六三四年からは長崎に駐在した。一六三・九年、妻とその両親(

頭注

  • へン出発
  • フルステー
  • ウィレム
  • 進物の点拾

  • 一六四七年十一月長崎にて

注記 (40)

  • 1326,425,57,332〔一六四七年〕
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  • 911,418,45,196ける日記
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  • 1070,1724,44,406によって記された、
  • 1211,389,62,1688〓全東インド会社の日本に於ける貿易の長たるフレデリック・コイエット
  • 375,424,42,1338ルレハールスベルフ号へ送って行った。夕刻、私の住居で、知事権八殿
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  • 299,713,41,729及びその他への贈物の品々を点検した。
  • 608,459,38,711三日ウィレム・フルステーへン閣下
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  • 553,417,36,1734ンダ東インド会社の職員として平戸に勤務し、一六三四年からは長崎に駐在した。一六三九年、妻とその両親(メ
  • 458,1859,37,306をフライト船ヒ
  • 521,413,34,1752ヒオール・ファン・サントフォールト及びその日本人妻)とともに長崎を退去した。この件については本書訳文編之四
  • 742,942,31,392○正保四年十月五日に始ま
  • 710,945,31,362り同年十一月四日に及ぶ
  • 1087,418,33,1293攻撃により一六六二年ゼーランディア城が陥落すると、フォルモサ島喪失の責任を問わ
  • 1013,1552,31,251○日記本文は十一、
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  • 1212,2069,32,95記の著
  • 1053,414,34,1245れ、バンダ諸島のアイ島へ流罪となる。後に赦されて一六七四年にオランダへ帰還っ
  • 1247,2071,30,93○本日
  • 285,588,34,103川家光
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  • 366,1773,32,170権八郎正信
  • 628,1174,35,996○前長崎商館長(一六四六-一六四七年在任、在任中の日記は本書
  • 472,418,34,1420参看。一六四〇年一月バタフィアの法務委員会書記に任命された。一六四七年一月に日本を去
  • 439,418,34,1368てからは東インド評議会員外参事に昇進。以後の経歴については本書訳文編之十、一頁参看
  • 593,1167,34,984訳文編之十に所収)。フリッシンゲン生まれ。一六二九年からオラ
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  • 553,413,36,1736ンダ東インド会社の職員として平戸に勤務し、一六三四年からは長崎に駐在した。一六三・九年、妻とその両親(
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