『大日本史料』 1編 9 天暦元年 6月~7年7月 p.841

Loading…

要素

割注頭注ノンブル

OCR テキスト

人家東後竹林の内にあり, 醐山陵傍なと見えたる御陵なり、, の大木立雙ひたり、その西東六丈許、北南七丈許あり、北東二方は小川流て、, いふへき山も無し、中尾陵に當るへきものもあらされは、中尾南原陵には, おのつから堺をなし、西南二かたは、小隍ありて堺ひたり、これ醍醐寺雜事, 枋木一株生たる處を、この御火葬所なるへきよし云へれと、此北に中尾と, 有鳥部野と見えたれは、紀伊郡鳥部野なる中尾山陵, た知かたし、或説に、東福寺の北方、泉涌寺道の南の畑中に、雀杜と稱て、古き, 堂の跡なりと、山州名跡志に云へり、平地にて丘陵の形なし、陵内四周に杉, 醍醐寺東云々と見え、同書に引る帝王系圖、また編年集成等に、置御骨於醍, 記に引る李部王記に、天暦六年三月廿日、御葬送云々、廿一日、朝奉遷御舍利, これ御骨を納奉りし御骨, 南原に在るへきことなるを、今その中尾陵も知難けれは、此御火葬所もま, 御火葬所は、今詳ならす、醍醐雜事記に引る帝王系圖には、來定寺北野と見, え、編年集成には、或記を引て、法性寺東中尾南原陵とみえ、類聚大補任には、, の, 光孝天皇の御母藤, 原澤子の陵なり、, 後山階陵より三町許, 巳午の方に當れり、, 丘陵ノ形, 平地ニテ, ナシ, 御火葬所, 天暦六年八月二十日, 八四一

割注

  • 光孝天皇の御母藤
  • 原澤子の陵なり、
  • 後山階陵より三町許
  • 巳午の方に當れり、

頭注

  • 丘陵ノ形
  • 平地ニテ
  • ナシ
  • 御火葬所

  • 天暦六年八月二十日

ノンブル

  • 八四一

注記 (26)

  • 1839,626,57,760人家東後竹林の内にあり
  • 1106,628,58,990醐山陵傍なと見えたる御陵なり、
  • 1596,637,72,2182の大木立雙ひたり、その西東六丈許、北南七丈許あり、北東二方は小川流て、
  • 243,652,70,2164いふへき山も無し、中尾陵に當るへきものもあらされは、中尾南原陵には
  • 1473,637,71,2171おのつから堺をなし、西南二かたは、小隍ありて堺ひたり、これ醍醐寺雜事
  • 363,642,68,2175枋木一株生たる處を、この御火葬所なるへきよし云へれと、此北に中尾と
  • 733,636,62,1540有鳥部野と見えたれは、紀伊郡鳥部野なる中尾山陵
  • 490,648,69,2169た知かたし、或説に、東福寺の北方、泉涌寺道の南の畑中に、雀杜と稱て、古き
  • 1717,628,70,2180堂の跡なりと、山州名跡志に云へり、平地にて丘陵の形なし、陵内四周に杉
  • 1227,630,73,2178醍醐寺東云々と見え、同書に引る帝王系圖、また編年集成等に、置御骨於醍
  • 1350,634,71,2173記に引る李部王記に、天暦六年三月廿日、御葬送云々、廿一日、朝奉遷御舍利
  • 1852,2055,60,754これ御骨を納奉りし御骨
  • 611,636,70,2184南原に在るへきことなるを、今その中尾陵も知難けれは、此御火葬所もま
  • 984,634,69,2176御火葬所は、今詳ならす、醍醐雜事記に引る帝王系圖には、來定寺北野と見
  • 856,641,71,2187え、編年集成には、或記を引て、法性寺東中尾南原陵とみえ、類聚大補任には、
  • 755,2768,44,37
  • 775,2207,42,522光孝天皇の御母藤
  • 729,2203,43,469原澤子の陵なり、
  • 1876,1415,44,605後山階陵より三町許
  • 1832,1418,41,540巳午の方に當れり、
  • 1720,276,41,167丘陵ノ形
  • 1766,276,38,164平地ニテ
  • 1682,281,30,66ナシ
  • 994,285,42,167御火葬所
  • 143,719,41,382天暦六年八月二十日
  • 152,2414,50,123八四一

類似アイテム