『大日本史料』 3編 1 応徳3年11月~寛治4年雑載 p.328

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るへし、仍て官符有へからさる由定ぬと聞て、首を道に捨て、空しく京へ登, り、私の力を以て、適々打平らくる事を得たり、早く追討の官符を給りて、首, を通らせ給ひ、京よりの仰を聞、川原へ首を捨て通らせ給ひけるを、當所へ, を京へ奉らんと申す、然れ共私の敵たる由聞ゆ、官符を給らは、勸賞に行は, 土人當所を以て、武衡、家衡戰死の地とす、先年社修造の爲、社地の古木を伐, 場なる事疑なしといへ共、兄弟ともに仙北金澤の柵にて討れたる事、前太, りにけりと云々、予按するに、義家朝臣小國街道より京へ登らんとて、此所, れ共川原に兄弟の墳墓あり、又不二軒に二像あれは、由緒なきにもあらす、, 間に金の切さき少つゝ殘れり、柄壹尺四寸四分竹也、古きもの也、, けるか中に、矢の根孕れて有けるを、時の代官に上けけるとそ、然れは古戰, 奧州軍記に、將軍國解を奉りて申樣、武衡、家衡が謀反、〓に貞任、宗任に過た, 平記、奧州軍記等に委しけれは、當所を以て、兄弟戰死の地とは云かたし、然, 寺家, 兄弟出張して戰ひける頃、親しくしたる土人抔有て、首を葬り墓を築ける, 當社を勝喜山と號す、義朝朝臣の勝軍の地を賀したるにや、下野國産祖海, といへる僧大藏院住職たりし頃、賦したる詩あり、〓中, ○中, 略, ○中, 勝喜山, 遺址, 衡戰死ノ, 傳武衡家, 寛治元年十二月二十六日, 三二八

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  • ○中

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  • 勝喜山
  • 遺址
  • 衡戰死ノ
  • 傳武衡家

  • 寛治元年十二月二十六日

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  • 三二八

注記 (25)

  • 667,748,58,1949るへし、仍て官符有へからさる由定ぬと聞て、首を道に捨て、空しく京へ登
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