『大日本史料』 4編 9 建永元年5月~承元2年2月 p.654

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京都火アリ、六角堂災ス、, るまゝに、ツつしかと土砂は流れをちしにもあるへく、或は後世桂昌院を, こと、いと〳〵由縁ありときこえたり、但最勝金剛院の地のそのかみ廣の, 五條坊門北、□□□燒了云々、, たて、庭をしつらふとては、ツと高き地の土をとりさけなともせしものな, 養和元年十二月の玉海にみえたれは、其寺内なる内山、この公を葬奉れる, 境、南限還坂南谷、西限河原、北限貞信公墓所山とみえたるにて、其四至おし, りし〓は、久安六年十一月の史官記にみえ〓る、太政官牒に四至、東限山科, 建給ひし寺院にて、忠通公御子皇嘉門院をも、この四至内に葬奉れるよし、, るへけれは、おのつから昇しクなりしものなるへし、そも〳〵上にいふ古, はかり知らるれは、上にいふ内山の地も、この寺内なりし〓をさとるへし、, 圖にみえたる最勝金剛院は、准三宮從一位藤原宗子, 宮内省御陵墓掛大澤清臣印, の法性寺内に, 〔仲資王記〕四月五日、〓戌、入夜、自亥刻及曉更大燒亡也、東洞院西東洞院東、, 明月記〕三十四月五日、天晴、亥時許、南有火、坤風甚利、火氣熾盛、三四方分, 忠通公, の室、, 三十, 勝金剛院, 兼實ト最, 承元元年四月五日, 六五四

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  • 忠通公
  • の室、
  • 三十

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  • 勝金剛院
  • 兼實ト最

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  • 六五四

注記 (23)

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