『大日本史料』 6編 33 応安3年是歳~応安4年3月 p.308

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子の軍大に勝利を得て洛中に攻入り、西山の法華寺に陣し、南方の軍勢と牒しあわ, 氏は路次に逗留あり、同六月二日に丹波志宇智に著き、和久城に至り、これより時氏, 佐直冬, 父子二手に分れてせめ登らる、同九日に、南方の軍勢と約を定て、未明より軍勢を出, せて洛中を窺ふ、同十三日に、時氏南方の勢と一手に成て京都を攻うつ、中將義詮, 門佐師義千餘騎を卒ひて進み、小林右京亮七百餘にて遊軍となり、佐々木の一族等と, し、梅津・嵯峨・仁和寺・西七條邊に放火せらる官軍も八條・九條に火を放つ、右衞, 追討により、義詮また美濃國に逃れ走る、同七月廿五日南方の官軍芳野に歸へる、時, ひ大軍をもよふし、京都を攻んとあひはからる、, 戰て是を伐破る、桔梗一揆兵を進て討てかゝる、師義また一戰に討破らる、時氏父, 同年の冬、尊氏公父子計て、時氏を討んと勢を集らる、時氏是を聞て、足利右兵衞, 耆國に歸陣あり、, 氏父子も兵を引て、同廿七日に丹波の山内にかゝり、丹後・但馬を經て、同廿八日伯, 戰ひ破れて、北帝を供奉し、江州に出奔あり、時氏父子、楠以下の諸將進て, を迎て、南帝へ奏し、立て將とし、尊氏・義詮追討の綸旨を賜り、再, 之男也、, 尊氏公, 直義の, 子也, 京都ニ入ル, 伯耆ニ歸ル, 直冬ヲ擁立, ス, 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日, 三〇八

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  • 之男也、
  • 尊氏公
  • 直義の
  • 子也

頭注

  • 京都ニ入ル
  • 伯耆ニ歸ル
  • 直冬ヲ擁立

  • 南朝建徳二年北朝應安四年二月二十八日

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  • 三〇八

注記 (25)

  • 1122,775,62,2182子の軍大に勝利を得て洛中に攻入り、西山の法華寺に陣し、南方の軍勢と牒しあわ
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