『大日本史料』 10編 1 永禄11年8月~同12年2月 p.885

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屯シ、北條ハ薩〓ノ山上ニ旗ヲ立テ互ニ對陣ス, と被仰出候に付、武田の諸勢此酒を飮かちに仕り候、信玄公各此酒をと, 人數にて、興津河原へうち出、北條氏康父子四萬乃人數と、信玄公一萬八千, ヨリ興津河原ニ出張ス、北條カ先鋒松田尾張守、川ヲ越テ備フ、武田カ先陣, をわかし、信玄公もひとつ聞食、御家中大身小身上下共に此酒を振廻被成, 寒き嵐に陣をはりかたし、信玄公御中間かしら衆に被仰付、駿府乃酒をか, 餘の勢にて御對陣あり。正月中旬末の事なまは、濱顧いたく吹、敵味方共に, 千五百の一備を山西をさへ乃ために駿府に殘しをき、一萬八千あまりの, 千の人數をもつて、氏眞を駿河へ本意乃ために出陣ありて、先衆は薩〓山, 候て、籠に入をおなされ候、信玄公、氏康の後詰をきこしめし、山縣三郎兵衞, ひ、陣衆の道作り千人にもたせ、興津へ取よせ在之、釜幾口もあはめ、今の酒, 八幡たいら、由井、蒲原迄取つゝき候、信玄公御使甫庵をは、伊豆の北條へ越, 跡部大炊助、二陣内藤修理亮、松田ニ懸負テ引退ク、其後武田ハ興津河原ニ, 岸セス、已ニ夜明テ謀相違ス、同廿六日、陸勢薩〓山ノ峠へ押ヨス、信玄久能, 〔甲陽軍鑑〕, 同正月十八日に、小田原北條氏康、子息氏政其勢四萬五, ○下, 十一, 之上, 略, 信玄山縣, 昌景ヲシ, 守ラシム, テ駿府ヲ, 永祿十二年正月二十六日, 八八五

割注

  • ○下
  • 十一
  • 之上

頭注

  • 信玄山縣
  • 昌景ヲシ
  • 守ラシム
  • テ駿府ヲ

  • 永祿十二年正月二十六日

ノンブル

  • 八八五

注記 (26)

  • 1580,693,59,1420屯シ、北條ハ薩〓ノ山上ニ旗ヲ立テ互ニ對陣ス
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