『大日本史料』 10編 2 永禄12年3月~同年6月 p.449

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より召よせられ、北條方乃陣し恊を一ッをしちらさせ、山縣同心見しな、廣, ひて、内藤修理申は、氏康五万に及人數をもつて、懸川へをし通、家康を押, 當年卅二歳なるか、欲の深き事は、年の數よりはる〳〵と上也、さあるに, し、國王と云子は信玄か孫なれは、氏政よだのやうに思は〓と、彼氏政は, さたには、武田信玄劔をまはし、甲州へ迯こまれたると申す也、甲府にを, 其うへ子息氏政、我等か聟なりはるか、今ははや息女死てあるといへと, 打越、道もなき所を、原隼人助工夫に任、甲府へ御馬をいれ給ふ、北條家の, に被仰付、由井乃源三殿とて、氏康公二番目の子息武藏乃八皇子の城主, 拂、氏眞を駿河へなをし給はゝ、久能乃今福はなにと可被成と申す、信玄, 瀬、小菅其外手柄乃者共に御證文被下、二日目の夜は。馬場、山縣兩侍大將, 四月廿七日に被仰出、次日廿八日には、信玄公陣を拂、駿河いはらの山を, たる武邊にて、しらぬ他國へ大河大坂をこして、望をあくる人にあらす、, 公聞召、氏康乃弓矢、小田原を出て、武藏、下總、上總其あたりを働廻りつき, 陣屋の前に柵をふり、莚にてかこひ、篝をいくはも燒給ふを悉蹈破らせ, 玄公、さては各分別いつまも同意也とて、山西乃押、山縣三郎兵衞を駿府, 永祿十二年四月二十四日, 信玄退陣, 氏政ノ人, 信玄氏康, 二十八日, トノ説, 物ヲ評ス, 永禄十二年四月二十四日, 四四九

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  • 信玄退陣
  • 氏政ノ人
  • 信玄氏康
  • 二十八日
  • トノ説
  • 物ヲ評ス

  • 永禄十二年四月二十四日

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  • 四四九

注記 (24)

  • 1795,763,58,2126より召よせられ、北條方乃陣し恊を一ッをしちらさせ、山縣同心見しな、廣
  • 987,761,62,2127ひて、内藤修理申は、氏康五万に及人數をもつて、懸川へをし通、家康を押
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  • 397,759,62,2112し、國王と云子は信玄か孫なれは、氏政よだのやうに思は〓と、彼氏政は
  • 1104,762,59,2125さたには、武田信玄劔をまはし、甲州へ迯こまれたると申す也、甲府にを
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  • 1217,760,64,2123打越、道もなき所を、原隼人助工夫に任、甲府へ御馬をいれ給ふ、北條家の
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