『大日本史料』 10編 2 永禄12年3月~同年6月 p.361

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河内、和泉、大和及び丹波, とを築けり、こは頗る廣大にして、華麗なる建築な, め、而して公方をば、其兄の〓されし其地點にて、再び位につけ、且つ住居せ, 其有樣を述べて、通常二萬五千人の人々が此工事に働き、而して少きとき, して日本の諸侯及び全貴族は、其建築造營に服務せんとて來れり、世人は, て彼は公方樣の爲めに、一の新しき城と宮殿, の勝利の易々たりしを目撃し、また公方樣を興さんとて來りし信長の權, りき、彼はこれに宛つる爲めに、三つの街衢に亙る平地を四角形にとり、而, しむることに定めたり、されども其處には、何等の住居すべき家なかりし, 彼は五萬餘の兵を率ゐて來, れり、こゝに彼は公方及びすべての衆勢を都の内外の僧寺院に宿營せし, 力と餘裕とを見るに及びて、茲に彼の下に屈服したり、かくして彼は偉大, かば、彼は僧院の居室を收めて、之を暫時の間の「住宅〕となさしめたり、而し, 、の諸國に、非常なる驚嘆を「喚び起し〕之により、すべて此等の國々は、信長, なる凱旋を以て都に入り、而して新しき公方樣をして、其榮位につかしめ, たり, し今日のそれのある位, 置に建てられしなり, 都に於て、其將軍の位に就かしめたり、, 後に一六〇一年、家康の建て, 獨譯者註、一五六八年、信長は足利義昭を, 獨譯者註、二條の第なり、そは, 五國なり、而して丹波は、山城の北に隣接する國な, 獨譯者註、山城、攝津、河内、和泉、大和は、即ち五畿内の, 永祿十二年四月十四日, 三六一

割注

  • し今日のそれのある位
  • 置に建てられしなり
  • 都に於て、其將軍の位に就かしめたり、
  • 後に一六〇一年、家康の建て
  • 獨譯者註、一五六八年、信長は足利義昭を
  • 獨譯者註、二條の第なり、そは
  • 五國なり、而して丹波は、山城の北に隣接する國な
  • 獨譯者註、山城、攝津、河内、和泉、大和は、即ち五畿内の

  • 永祿十二年四月十四日

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  • 三六一

注記 (26)

  • 1923,679,57,698河内、和泉、大和及び丹波
  • 633,1392,67,1484とを築けり、こは頗る廣大にして、華麗なる建築な
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  • 405,676,67,2194して日本の諸侯及び全貴族は、其建築造營に服務せんとて來れり、世人は
  • 757,678,62,1341て彼は公方樣の爲めに、一の新しき城と宮殿
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  • 518,679,68,2198りき、彼はこれに宛つる爲めに、三つの街衢に亙る平地を四角形にとり、而
  • 981,681,66,2196しむることに定めたり、されども其處には、何等の住居すべき家なかりし
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  • 865,681,67,2196かば、彼は僧院の居室を收めて、之を暫時の間の「住宅〕となさしめたり、而し
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