『大日本史料』 10編 4 元亀元年2月~同年9月 p.918

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京へ歸り、, 陣下にこれをかく、此とた信長の士卒屈しそたゝかはんとせす、志賀の城, 被相上、此〓南敵雖相慕、無指儀、, に楯籠り、すでにあやうからんとすなとき、秀吉謀略をもつて誓書をおく, をせめ、一人ももらさす〓〳〵りうち捕、堺右近うち死にす、首數百信長の, 利を得て、森氏をはじめ數多討捕、堅田の猪飼、信長に内應をなす、先鋒の將, 門を城守として坂本に出張す、義景叡山に陣とりてあひたゝかひ、大に勝, 前の通路をき〓んとす、とたに朝倉式部大輔俄に諸軍をおこし、堅田の城, 比信長は大坂へ出張し、野田、福嶋を責らるゝ、然に森三左衞門籠りて、坂, り、和をこふ、そのとき義景、魚住備後守、同子彦四郎をして信長を守護せし, 軍をおこし、叡山にのほる、信長大坂より志賀に歸り、城をかまへ、森三左衞, 同三年十月、義景大, 本にて朝倉と合戰し打負、三左衞門と織田九郎と討死す、是を聞て、早々, 堺右近、明智光秀、兵士三千人を引ひ兵船にのり、夜中に堅田におもむき、越, 松平記〕下一元龜元年九月十六日、越前衆比叡山八王子に陣取ける、其, 朝倉延景, 〔寛永諸家系圖傳〕, 左衞門督、のち義, 三日ノ條ニ收ム、, 景にあらたる、, ○下略、本月二十, 百六, 校, 十二, 訂, 堅田城陷, リ坂井政, 尚戰死ス, 元龜元年九月二十日, 九一八

割注

  • 左衞門督、のち義
  • 三日ノ條ニ收ム、
  • 景にあらたる、
  • ○下略、本月二十
  • 百六
  • 十二

頭注

  • 堅田城陷
  • リ坂井政
  • 尚戰死ス

  • 元龜元年九月二十日

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  • 九一八

注記 (30)

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