『大日本史料』 10編 10 元亀3年8月~同年12月 p.199

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八千の人数をもつて後詰と見えつるが、川をうち越、早々引上る、馬場美濃守、信玄, 信玄公の御養ある、其歳六ッに成給ふを惣領にと有て、太郎信勝と申御曹司の御親父な, る故、勝頼公を副將軍と定られ、典厩・穴山・勝頼三人に惣人数を渡し、ふたまた中根平, 唐の頭に本多平八とよむ、其後ふたまたの城へ取つめせめらるゝに、四郎勝頼公・典厩・, 五人以來は、信玄公の御家にも多なき人に相似たり、家康少身の家に過たる平八郎也、, 穴山殿三人の大將にして、ふたまたをせめ給ふ、中にも勝頼公は、紺紙金泥の法花經の, 母衣を被成、差物にして御精を入らるゝ、右三頭の内にても、四郎殿を諸人執し奉るは、, 玄公御旗本の近習、歌によみて、みつけ坂にたつる、其歌は、家康に過たる物は二ある、, 左衞門をせめらるゝ、家康後詰のおさへに馬場美濃守手勢組そへて、雑兵七百餘、小田, 其上三河武者十人が七・八人は唐の頭をかけて出る、是も過たりと、小杉右近助と申信, 原氏。政衆手合千七百餘、次は御旗本組そへて四千餘、是は濱松のおさへなり、然ば家康, 公御前へ參り申さるゝは、天龍わたり、内々繪圖をもつてならしの時、沙汰仕候へとも、, 淺き深きは更に見及ばさる所に、家康越たるを能見て候へば、一段淺く相みえ申、若, は、甲州にて、むかしの足輕大將原美濃守・横田備中・小幡山城・多田淡路・山本勘介、此, ノ武田氏方, 信玄馬場信, ノ主將, ヲ阻止セシ, 家康ノ援軍, 春等ヲシテ, 二俣城攻メ, 落首, 元龜三年十月三日, 九九

頭注

  • ノ武田氏方
  • 信玄馬場信
  • ノ主將
  • ヲ阻止セシ
  • 家康ノ援軍
  • 春等ヲシテ
  • 二俣城攻メ
  • 落首

  • 元龜三年十月三日

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  • 九九

注記 (24)

  • 461,690,83,2179八千の人数をもつて後詰と見えつるが、川をうち越、早々引上る、馬場美濃守、信玄
  • 934,687,85,2179信玄公の御養ある、其歳六ッに成給ふを惣領にと有て、太郎信勝と申御曹司の御親父な
  • 816,683,87,2186る故、勝頼公を副將軍と定られ、典厩・穴山・勝頼三人に惣人数を渡し、ふたまた中根平
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  • 1635,679,88,2177五人以來は、信玄公の御家にも多なき人に相似たり、家康少身の家に過たる平八郎也、
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