『大日本史料』 10編 17 天正元年8月 p.17

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立願成就の儀これあるにつき、御祈祷所になされ御歸依のよし、その寺のむかひの, も御座候や、此城むかしは毛利と申人代々在城のよし、此所にても大合戰是あるよ, 談いたし、當國八上郡大玄寺と申禪寺にて、たまし討に仕候と申候、墓所當國智頭, 國の土民申候は、武田合戰に打まけられ候て、但馬に舅あるのゆへ、其所へ逃られ, 候へは、舅の方にて討留め申なとゝ候、其弟又三郎は當國の國侍打寄たはかり和, し、右の覺王寺と申寺とては大破いたし、禪高公御祈祷いたし候山伏は、子孫も多, 郡に御座候、按するに、此説は家説と異なり、武田豐前は豐國に亡されたる事分明, と申山伏寺御座候、本尊は觀音にて御座候、禪高公此邊に御座なさるゝのとき、御, 今に御座候て、武田太郎右衞門殿と申すいみの御末のやうに、當地にて申ものこれ, は彼の武田の子孫のよし申候、或記に曰く、當國八東郡きさいちと申所に、覺王寺, 也、又曰く、古武田豐前の子孫流浪候て、後には禪高公をたのみ、御家中に有付、, 在所市場と申所名城のよしに候、古跡にて候、もし此城に御在城なとなされ候御傳, あり候、又當國にても八上郡ひけた村と申所に、鳥越の一黨とてこれ有り候、百姓, ニ申候、大閤記なとには、禪高公御討なさるゝやうにしるしこれあり候へとも、當, 豐國ノ祈祷, 武田又三郎, ヲ但馬大玄, 寺ニ殺ス, 鳥越一黨, 所, 天正元年八月一日, 一七

頭注

  • 豐國ノ祈祷
  • 武田又三郎
  • ヲ但馬大玄
  • 寺ニ殺ス
  • 鳥越一黨

  • 天正元年八月一日

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  • 一七

注記 (22)

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