『大日本史料』 10編 21 天正2年2月~同年4月 p.35

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れたる取出、或は美濃先方衆信長へ降參の人々の城ども、都合十八勝頼公御代にせ, 遠山與介をせめらるゝ時、信長六萬あまりの人數をもつて後詰也、明智の向ひ鶴岡, され候、信長勢山縣三郎兵衞におち候て、都合上道八里しさりさる故、明智の城を, つて、かねて覺悟して、彼道筋押に罷立候、信長勢を見て、山縣少鶴田山の方へま, 力なく勝頼公へわたし申候、信長警固の衆十六騎の内九騎討死仕候、殘七騎はをく, はりかくるをみて、信長勢早々引とり跡へ歸る、山縣衆競懸て是をくひとめ申べき, めをとし被成候、其城共はないぎ・かうの・ぶせつ・いまミ・あてら・まこめ・大, 候、殊更右申勝頼公御馬を出され、二月半より四月上旬までに、信長こしらへをか, と云へ、信長の先衆二手取上る、山縣三郎兵衞手勢寄騎相備衆、合六千の人數をも, 然ども其後は、山縣下知してをはず候、さて又信長は、上道四里しさりて陣を取申, らるゝ、其後いひはざまの城へ、信州河中嶋衆の内三備をもつて取詰らるゝ、馬場, と跡をしたふ、上道四里、山縣衆六千の人數をもつて、信長衆六萬あまりを追申候、, も岐阜へ上道七八里ちかくまで、武田方へとりひしぎ、秋山伯耆守も燒はたらき仕, 井・中津・つるひ・かうた・せとさき・ふつた・くし原・明智、此城へとりつめ、, 昌〓景ノ兵ヲ, 信長勢山縣, 勝頼飯狹間, 見テ退ク, 城ヲ攻ム, 天正二年二月五日, 三五

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  • 昌〓景ノ兵ヲ
  • 信長勢山縣
  • 勝頼飯狹間
  • 見テ退ク
  • 城ヲ攻ム

  • 天正二年二月五日

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  • 三五

注記 (21)

  • 1625,706,61,2152れたる取出、或は美濃先方衆信長へ降參の人々の城ども、都合十八勝頼公御代にせ
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