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は佐竹立退き、寄手は小田原へ凱旋をそしたりける、, 五郎氏規策を出して手勢を分て、四百餘き間道り義重の陣の後へ廻り、相圖定て自身は, へ廻りたる小田原勢、思もよらす鬨を作りおめきさけひて懸りしかは、前後の敵にもこ, 金山を攻なひけんとの調略をなし、義重は武州羽生郷へ出張して立馬也、氏政此由を間, 竹もかねて其心得をなし夜守の備へを設けれは、少もさわかす取合せ防き戰ふ、時に後, 立られて、佐竹衆敗軍也、義重心は矢たけなれ共、番に境を越たる、長陣兵粮次第に乏, により、陣を拂て東國へ入馬せられけれは、氏邦・氏規を初メ、南方衆も羽生を引去り、, 七百餘き、兵を率し子刻計に夜打を仕かけ、敵の外張へ火を放て短兵急に攻懸たり、佐, て、急きはせ向ておさへよとて、舍弟新太郎氏邦・五郎氏規に大藤長門守・若林和泉守, 又關宿の攻手に相加て日數を送けるゆへ、城中にそ後詰の頼ミも失せ、粮又不足に成行, 和解の事を申入しかは、氏政も承引有て、壬十一月十七日、城をひらき渡し、簗田父子, 片山大膳亮等三千餘きを相添て羽生長て差向ふる、此人數對陣して配立を見合する、助, くまゝ、宇都宮廣綱り義重へ相義して、義賀伊賀守高綱・壬生上總助義雄を以、南方は, へ、時節よしとや思はれけん、成田・佐野・皆川へ羽書を飛はせ、この序に古河・館林, 或翌年五月, 落城とも云, 天正二年閏十一月十九日, 二四
割注
- 或翌年五月
- 落城とも云
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- 天正二年閏十一月十九日
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- 二四
注記 (18)
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