『大日本史料』 11編 1 天正10年6月 p.184

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住人越智か方より、郷導の爲指出したる吉川父子來て饗し申、夫より御供, 四里餘也、此所へ服部平大夫急き來り、京にて信長の大變の由、奈良にて沙, 仕、大和と山滅の國境の山々の山城の方の下道、此境山に添〓有し細道を, の義を、間道然るへしと申、生駒山續の和州山河州へ成出し、山の間の岨の, 國へ可被赴と堺を御立、平野へ御懸り、河〓普光寺村の池迄御越、是堺より, かく淀伏見筋へ御通り、洛東知恩院へ御入あらんと、此道を御越あらんと, 立上ルうへは、信忠公も定而御生害と存らるゝと申、忠勝大に驚き、然は堺, に付、同道し跡へ立歸る事三里計にて、普光の池の端にて行向ひ評定す、と, 汰承ると否や參上と申す、本多平八郎は、御内用に付、御先へ可參由ニ付、夜, の名張の服部出羽方へ行たる故、越智方ゟ疾指出す家人也、此父子御案内, へ立歸御供申むと、茶屋に伴て立歸、六月二日の曉天京都へ先御越、夫ゟ本, を納め御先へ立て、飯守山の麓迄來る處へ、茶屋四郎次郎馳來り、此由を語, 細道を城〓山田村へ御出也、此細道北川越といふなり、此山田村へ大和の, す、是服部平大夫普光にて命を蒙り、直に馳出、越智方へ申入れ、夫より伊賀, 通り給ひ、木津川の端に出給ふ、此間に奈良邊惣て大和より山城へ通る徃, へ出ヅト, 大和山河, 城山田村, 寺へ出ヅ, 州ヲ經山, 河内普光, トノ説, 吉川父子, ノ説, 天正十年六月四日, 一八四

頭注

  • へ出ヅト
  • 大和山河
  • 城山田村
  • 寺へ出ヅ
  • 州ヲ經山
  • 河内普光
  • トノ説
  • 吉川父子
  • ノ説

  • 天正十年六月四日

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  • 一八四

注記 (26)

  • 619,622,61,2193住人越智か方より、郷導の爲指出したる吉川父子來て饗し申、夫より御供
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