『大日本史料』 11編 6 天正12年3月 p.169

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矢に痛み退處を、梁瀬兵右衞門刀を以名乘がゝり、川上左京亮高信の首を, 高信を見掛、弓を以引、ひやうとはなしけれは、高信乃内甲にあたり、高信此, 退處ニ、なしかはのかすへき、戰場ニ而、高信を始數輩を打取畢、亡敵之首, 懸渡、侍衆八百餘人也。如此御手遣之爲後立与、義久八代え御發足、高來え, 星とのを隨へ、我旗下に入れんかため、赤星子共二人國へに取、則時に打果、, 然者此赤星との此恨の憤を發さんか爲、御家を被頼申に依て、中務樣御大, 道ニ而、肥後隈本ゟ内の空閑、わいぬ、かふしなとまて打廻けいりやくな, 海路可思遣、規久は中務同心にて罷渡、太刀打數度ニ及、然者高信打負引, 渡海被成さる人數は八代え有ける、規久弟七郎久高は、伊集院下野守同, 者なれは、略を以軍を成給ふ故に、敵敗北する所に、有馬又九郎拾六歳にて, 將として、三ケ國の軍兵被召列、有馬の嶋原に御渡り、此事肥前え相聞得、高, と可云樣なく、薩州衆五千三千之衆ニ而、たいやうすへき事にもあらす、, 信數萬の兵を卒て嶋原え走向ふ、雖然中務家久、兵道の川田も郎軍法の達, り、, 〔帖佐彦左衞門書上〕〓日天正八歳に、肥前國主龍藏寺高信恣貪私欲、赤, 射ル, 有馬又九, 樺山規久, 郎隆信ヲ, 天正十二年三月二十四日, 一六九

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  • 射ル
  • 有馬又九
  • 樺山規久
  • 郎隆信ヲ

  • 天正十二年三月二十四日

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  • 一六九

注記 (21)

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