『大日本史料』 11編 18 天正13年8月 p.101

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はれけるに、城より備を出、合戰を待居けれとも、少も上方勢は不取合して、七八日過, 官、十萬餘騎を被指向、關白殿は大坂石山の城へ六月中旬に御歸座有之きこゆ、長宗我, ひら攻に責ける間、何の造作もなく、川の江・金子兩城を攻落し、金子市正・妻鳥采女, 呂・海部の兩城もさわき立て、元親内にても二番とさからさる侍大將谷忠兵衞は、敵の, 地よけれ、かく成行ける間、阿州木津の城主東條關兵衞も、城をあけて退に付て、一の, 元親被官と成、河野通直は輝元に甥なり、かゝるにより、輝元勢通直より案内者を呼て、, けられける湊なれはとて、讚州勝浦と天島の磯より取上り、それより上田へ物見をつか, 指加て守らせける所に、京方の大將秀長は、元暦の頃ほひ、源の名將九郎義經の船をつ, 頼て親の敵を取たるたとへなからも、諸侍の法を背者ともに、天の誡を見せたるこそ心, を生捕、宇麻龍眞・石川・長曾我部なと言逆臣等を、一人も不殘撫切にするは、厄神を, 與は河野家相傳候領知なるか、元親に計策せられて、かれらは相傳の主河野通眞を背、, て阿州木津へ二萬餘騎指わけ、又毛利輝元は北伊豫河の江・金子の城へむかふ、此北伊, 部元親是を聞て、我身は阿州羽久地の城に出張して、同名九兵衞に究竟の武士三百餘騎, か、同六月初には彼表不殘攻ふせられ、扨四國へは大納言秀長・右馬頭輝元兩人爲御代, 輝元ノ甥, 元親ニ付ク, 伊豫攻メヲ, 河野ノ家中, 通直毛利ノ, 通直ニ背キ, 通直ハ毛利, 先導ス, 天正十三年八月六日, 一〇一

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  • 輝元ノ甥
  • 元親ニ付ク
  • 伊豫攻メヲ
  • 河野ノ家中
  • 通直毛利ノ
  • 通直ニ背キ
  • 通直ハ毛利
  • 先導ス

  • 天正十三年八月六日

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  • 一〇一

注記 (24)

  • 1290,703,58,2235はれけるに、城より備を出、合戰を待居けれとも、少も上方勢は不取合して、七八日過
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