『大日本史料』 12編 1 慶長八年二月~同九年二月 p.325

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これを惜ませたまふ, 九年、六右, はまた幼稚なれは、六右衞門これをもりたつへしとなり, 模守忠隣、父一時か家臣野村六右衞門某をめしていはく、一時實子ある, 孫、ことに扶助あるへきを、不幸にして世をはやくせしとの御〓ありて、, 代々葬地とす、これよりさき、病にかゝるのよし、台徳院殿きこしめされ、, へきむねをこひたてまつり、をのれ後見する事を辭す、正信これを聞て, 月二日釆地にをいて死す、年三十六、法名宗源、牛込の松源寺に葬る、のち, 衞門、本多正信か許にいたり、一乘幼年にして、莫大の釆地をたまはる事、, 死を告るの使に逢て、江戸にかへり、このむねを言上せしかは、勇者の子, 本多三彌左衞門正重を、釆地に下したまふのところ、中途にして、一時か, 恩惠はなはたふかし、十五歳にをよふまて、名代をもつて、公役をつとむ, 年、關原御陣にしたかひたてまつり、七年、台徳院殿に付屬せらる、八年六, のよし上聞に達するかゆへ、その遺跡を知行すへし、しかしなから、一乘, 富田谷津、山田、和田、成山郷等のうちにをいて、釆地二千石を賜ふ、慶長五, 一乘、母は某氏、慶長八年八月、青山播磨守忠成、本多佐渡守正信、大久保相, 慶長八年六月二日, 二歳, 時に, 瀧川一乘, 慶長八年六月二日, 三二五

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注記 (22)

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