『大日本史料』 12編 3 慶長十年三月~同十一年三月 p.170

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し輩は、しはらく歸郷すへきむね恩命ありといへとも、忠家等これをう, 某か許より、忠家か家臣矢田部新左衞門某に贈れる密書を得て、東照宮, の役にしたかひたてまつり、御凱旋のゝち、十市郡のうちにをいて、新恩, 千石をたまふ、そのゝち、忠家癰を患るにより、紫野の順藏主は、外科の術, 和國十市郡のうちにして、采地千石をたまふ、ときに妻子を本國に殘せ, に獻り、父子おなしく伏見の向島にいたりて、御館をまもる、このとき、大, に長したるきこへあれはとて、かの僧をして療養せしめられ、また延壽, けかはす、はしめより妻子を棄て勤仕せる上者、これらのこと、こゝろに, かけさるのむね言上せしかは、御感ありて茶壺をたまふ、このとし關原, 院意庵を下され、十年四月二十九日、伏見にをいて死す、年五十七、法名宗, に候し、そのゝち關原の役に供奉す、七年、大和國山邊郡の内にをいて、采, 圓、葬地時家におなし, 忠泰母は新左衞門某か女、文禄四年、はしめて東照宮にまみへたてまつ, 慶長三年より御小性をつとめ、五年、父とおなしく伏見の御館, 地千石をたまふ、八年、從五位下豐後守に敍任し、十年、父か遺跡を繼、忠泰, 妻は成吉新左衞門某か女、, 慶長十年四月二十九日, る, ○京都知恩, 四歳、, 寺慶運院、, 時に十, 主外科ニ, 紫野順藏, 長ス, 忠泰, 一七〇

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  • ○京都知恩
  • 四歳、
  • 寺慶運院、
  • 時に十

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  • 主外科ニ
  • 紫野順藏
  • 長ス
  • 忠泰

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  • 一七〇

注記 (27)

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