Loading…
要素
割注頭注ノンブル
OCR テキスト
は、此圖にのする處、その地におよはざればなるへし, いはんにも西へよりすきたり、此所き御溝のさまなとも、大に變革ありし, 張なり、竹橋と平川橋との間を帶曲輪にとり候事、功者の所爲也と云々、大, 橋とも名つけたりと、事蹟合考云、平川口、竹橋の邊は、藤堂佐渡守高虎の繩, 士たりと、此竹橋の西の方にも、御門とおほしき所見ゆ、是は、今の矢來口と, と見ゆれは、今よりいかにとも云かたし、この餘、田安口、品川口を記さゞる, その家譜に見へたり、此頃の御門といへるは、今とはことなるべし、或書云、, 坂兩度の御陣時、松平大膳大夫忠重、江戸竹橋口御門のまもりを勤むると、, り、彦四郎は小田原沒落之時、椎津の城に於て討死す、其子孫今に會津の藩, は、竹橋なるべし、同書云、竹をあみて渡したる橋あり、これをはすのこ橋、竹, 津城を玉ひ、其身は江戸二の曲輪にをつる、彦四郎か家の者どもは、神田竹, 竹橋はむかし在竹ばしといへり、北條の家人に、在竹攝津守といへる者在、, 橋におかる、よりてその比在竹橋と唱へしを、後呼よきまゝに竹橋といへ, 臺合戰の時討死す、其子を彦四郎といへり、父か討死の忠により上總國椎, 永祿七年、鴻の, 按に、攝津守ハ、伊勢新九郎と共に京都より駿河國に下りし, 在竹左兵衞尉つ一族なるべし、その家譜をいまた詳にせす, ○下, 略, 在竹橋, 平川口, 矢來口, 慶長十一年五月是月, 一六五
割注
- 按に、攝津守ハ、伊勢新九郎と共に京都より駿河國に下りし
- 在竹左兵衞尉つ一族なるべし、その家譜をいまた詳にせす
- ○下
- 略
頭注
- 在竹橋
- 平川口
- 矢來口
柱
- 慶長十一年五月是月
ノンブル
- 一六五
注記 (24)
- 248,646,58,1559は、此圖にのする處、その地におよはざればなるへし
- 483,647,56,2207いはんにも西へよりすきたり、此所き御溝のさまなとも、大に變革ありし
- 1657,636,60,2222張なり、竹橋と平川橋との間を帶曲輪にとり候事、功者の所爲也と云々、大
- 1773,634,60,2224橋とも名つけたりと、事蹟合考云、平川口、竹橋の邊は、藤堂佐渡守高虎の繩
- 599,639,59,2216士たりと、此竹橋の西の方にも、御門とおほしき所見ゆ、是は、今の矢來口と
- 367,641,57,2207と見ゆれは、今よりいかにとも云かたし、この餘、田安口、品川口を記さゞる
- 1423,639,58,2236その家譜に見へたり、此頃の御門といへるは、今とはことなるべし、或書云、
- 1540,633,58,2238坂兩度の御陣時、松平大膳大夫忠重、江戸竹橋口御門のまもりを勤むると、
- 714,633,61,2227り、彦四郎は小田原沒落之時、椎津の城に於て討死す、其子孫今に會津の藩
- 1891,653,60,2206は、竹橋なるべし、同書云、竹をあみて渡したる橋あり、これをはすのこ橋、竹
- 950,628,61,2230津城を玉ひ、其身は江戸二の曲輪にをつる、彦四郎か家の者どもは、神田竹
- 1304,634,59,2240竹橋はむかし在竹ばしといへり、北條の家人に、在竹攝津守といへる者在、
- 833,631,60,2211橋におかる、よりてその比在竹橋と唱へしを、後呼よきまゝに竹橋といへ
- 1068,635,60,2226臺合戰の時討死す、其子を彦四郎といへり、父か討死の忠により上總國椎
- 1185,2441,60,412永祿七年、鴻の
- 1217,638,45,1777按に、攝津守ハ、伊勢新九郎と共に京都より駿河國に下りし
- 1174,642,42,1782在竹左兵衞尉つ一族なるべし、その家譜をいまた詳にせす
- 281,2229,40,111○下
- 236,2228,39,38略
- 1313,271,42,124在竹橋
- 1786,270,40,125平川口
- 611,268,38,124矢來口
- 144,703,44,389慶長十一年五月是月
- 144,2453,44,110一六五







